第十話 飾らず・二
意識は、まだ途切れていなかった。
身体は動かない。痛みは消えない。
それでも縁琉は、目の前の男から意識を逸らせなかった。
肆は、目の前の惨状など気にも留めていないようだった。
そして、何事もなかったかのように、倒れ伏したヤマトの背中に腰掛けた。
——……ッ?!!
縁琉の額に青筋が浮かぶ。
あまりにも自然な動作だった。
戦闘が終わったから、休む。
ただそれだけのことだとでもいうように。
「…………流石に焦ったな。イッテェ……。」
ジャケットの内を探り、取り出したのはマッチの箱と、煙草だった。
黒い箱には『BLACK DEVIL』と書かれている。
特徴的な黒い包装紙を咥え、シュボッとマッチで火をつけた。
俯いたまま吐き出された煙が、煙草らしくない甘ったるい香りを撒き散らす。
僅かに、肆の目付きが変わっていた。
「…………。」
紫煙が、静まり返った室内へと昇る。
縁琉は、ようやく自分の身体の状態を思い出した。
痛みが遅れて押し寄せてくる。
呼吸をするたびに、脇腹の奥が軋んだ。
手足には力が入らず、視界も定まらない。
戦える状態ではない。
逃げることすら、難しいかもしれない。
それでも、今なら。
肆は煙草を吸っている。
こちらを見ていない。
追ってくる気配もない。
このまま死んだふりをすれば、あるいは——。
自分でも、何を期待しているのか分からなかった。
ただ、考える時間が欲しかった。
何をすべきか。
何ができるのか。
命令に従うべきだった。
圓の判断を信じるべきだった。
ヤマトの覚悟を無駄にしないためにも、逃げるべきだった。
それなのに、二人が倒れた今、自分だけが生き残ることを、どうしても正しいと思えなかった。
——正しいかどうか。
また、それだ。
いつだって、自分は正解を探している。
命令と良心のどちらが正しいのか。
仲間を守るためには、何が正しいのか。
自分が選ぶべき道は、どれなのか。
考えている間にも、人が倒れていく。
目の前で。
手の届く場所で。
それなのに、自分はまだ、答えを探している。
私は、何をしている?
指先が震えた。
怒りなのか、恐怖なのか、自分でも判別できない。
ただ、このまま何もせずにいれば次に倒れるのは自分だ。
そして、自分が倒れたところで、誰も守れない。
その事実だけが、嫌になるほど明瞭だった。
「…………。」
縁琉は、息を殺した。
少しでも体力を戻す。肆の様子を見る。隙があれば逃げる。
合理的な判断だ。
生き残るために必要なことだ。
そう考えなければ、今にも立ち上がってしまいそうだった。
だが——、
「What it do, shawty.」
─よォ、半端女─
不意に、声が降ってきた。低く、気の抜けた声だった。
「……死んだフリか?」
——…………っ?!
縁琉の身体が、僅かに強張った。
見抜かれている。
そう思った瞬間、喉の奥が冷たくなった。
肆は煙草を指に挟んだまま、こちらを見下ろしていた。
——何者なんだ……、なんなんだ、こいつッ。
——迦楼羅さんを倒した。あの人を、執行庁最強の、姫払迦楼羅を。
何度考え直しても、その事実だけは変わらない。
なぜ、あの人を倒せるのか。
——分からない。
見ていたはずなのに、肝心なところが頭の中で繋がらない。
こんな男、見たことがない。
特定危険人物情報票。既知の構成員。関連組織の幹部。過去の摘発記録。
思い当たる顔が、一つもなかった。
顔立ちは日本人に近い、日本語も流暢だ。
しかし、時折混じる英語の癖が、妙に耳に残る。
日本人なのか。
海外で活動していた人間なのか。
それとも、最初から身元を隠すために——。
——……いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
目の前にいるのは、迦楼羅を倒した男である。
その男が、今は煙草を吸っている。
まるで、さっきまでの戦闘など大したことではなかったかのように。
——何を考えている?
——私を、どうするつもりだ?
——分からない。
何一つ、分からない。
ただ、目の前に座っている。
ヤマトに腰掛けているが、その態度に嘲りや侮辱すら感じない。
その表情に、勝利の興奮も、殺意の昂ぶりも見当たらなかった。
ただ、煙草休憩を堪能する男が、少しだけ面倒そうにしている。
それだけだった。
「タバコ休憩に付き合ってくれんのか?」
縁琉は、答えなかった。
答えられなかった。
肆は別に、それを気にした様子もなかった。
煙を吐き出す。
その向こう側で、倒れた仲間たちが横たわっている。
「ま、……なんでもいいけど」
「…………何のつもりですか」
怒りと遣る瀬無さを抑え、呻き声のように言葉を漏らす。
ゆっくりと、肆の黒い瞳が動いた。
「休憩だ。あと、後続待ち」
煙草を咥え直し、紫煙を吐く。
「仕事は終わったしな。急ぐ理由もねぇだろ」
舐めている、という感情は感じられなかった。
「……なぜ、私にとどめを刺さない」
「殺せとは言われてねーしな。命令に従ってるだけだ」
——……命令、か。
その単語が、喉に引っかかる。
「……あなたは、命令に従っているだけなんですか」
「そうだな」
あまりの即答に、縁琉の目が見開かれた。
濁りの無い態度。
かつての失態が脳裏に蘇った。
「自分で……、考えないんですか」
どういうつもりか、自分でも分からずに質問を続ける。
それは懐疑か、どんな感情から来たのか、分からない。
「考えるだろ。どうやったら遂行できるかとか。命令の意味まで、いちいち俺が決める必要あるか?」
フッと勢いよく煙を吐き出しながら、肆はゆったりと返答をしていく。
「命令が、——」
無意識に、言葉が詰まった。
「命令が間違っていたら…………。」
「命令した奴が間違ってんじゃねぇの」
「それで、誰かが死んでも?」
「死ぬだろそりゃ。阿呆か」
笑わず、責めもしない声音。
「生かすなら生かす。殺せって言われたら殺す。できなかったら、俺が弱かった。そんだけの話だろ」
全て正解だった、単純すぎるほどに。
だが、その言葉はやはり腑に落ちない。
「そんなのはっ……、あまりにも無責任です」
「へえ。じゃ、お前は責任取れてんの?」
——………………。
心臓が跳ねた。
息が詰まる。
口を引き攣らせ、僅かに顔を上げた。
「あー待て待て。どっち選んでも誰か死ぬ、そこで悩んでんだろ、分かってる」
肆はゆっくりと手のひらを振り、制止するように言葉を紡いだ。
存外、話が通じる相手だった。
「でもよ。悩んでりゃ、全員助かんのか?」
「…………ッ。」
その言葉は、ククリよりも、深く、鋭く突き刺さった。
くぐもった声を漏らす縁琉だが、肆は低く落ち着いた口調を崩さない。
「……あなたに、何がわかる……っ」
「だから、わかるって」
煙草を咥えたまま、手を翳す。
手で隠れた口から、紫煙が溢れ出た。
「好きなもん全部欲しいくせに、一つも選べてねぇなぁ。テメェ」
「違う!」
即座に、声を荒らげた。
痛む傷に構うこともなく、上体を持ち上げ、睨みつける。
「私は……!!」
言葉が続かなかった。
否定したかった。
しかし、叶わない。
肆は煙を吐いた。
長く伸びた煙が、床近くでゆっくりと広がっていく。
そして、彼は小さく鼻で笑った。
ただ息を吐いたかのように、乾いた笑み。
「悩み過ぎだろ。病んだ大学生かよ」
「…………!!!」
黒い瞳が、見下すように見据えてくる。
その言葉は、最も強く彼女の胸中を叩き壊した。
「弱い、未熟、視野も狭い。んのくせ、勝手に悩んで」
——……やめろ。
血のにじむ手を握りしめ、歯を食いしばった。
無意識に、頭の中が拒絶で埋まる。
「命令も仲間も大義も守れない」
——違う……。
「それで、何を守るつもりなんだよ」
その問いは、迦楼羅の背中を見た日から、自分が避けてきた問いだった。
「…………………っ!」
無意識だった。
情動に突き動かされ、床を蹴る。
憤怒に満ちたその形相で、警棒を振りかざした。
血を流しながら、揺れる視界で無理矢理に立ち上がりながら——、
自分に対する怒りか、目の前の理不尽に対する怒りか、判然としないものをぶつけるように。
「…………。」
肆は立ち上がらない。
縁琉の振りかざした警棒が迫った。
プッ————
その刹那、肆が咥えていた煙草を口で飛ばした。
「?!!」
火の粉を散らしながら、吸い殻は縁琉の顔に飛んで来る。
縁琉が反射的に顔を庇った一瞬に、肆の手が伸びてきていた。
ジュッ——
火のついた吸い殻ごと、縁琉の顔面を鷲掴みにする。
煙草の目眩しと、熱さによる一瞬の動揺。
すかさず、肆の肘打ちが顎を横薙ぎに穿った。
ドタッ……——
「Step back,ain‘t shit.」
「ガァッ…………、ァっ」
限界が来た。
今一度、力なく床に叩きつけられる。
「……なあ」
縁琉は応えなかった。
答えられなかったのではない。
「お前、誰のどんな命令なら納得できんの」
追撃をする気も無いのか、またもや腰掛ける肆。
その目は、呆れか、諦念のような色が漂っている。
「……何を」
「誰の言うことなら、迷わず従えるんだよ」
ため息混じりに、一拍の沈黙が落ちた。
「俺は、誰の言葉を、どこまで聞くかは自分で決めた」
一瞬だけ、声から気怠さが消える。
その眼差しは、縁琉ではなくどこか遠い場所を眺めているようだった。
しかし、すぐさま鋭い目つきに戻る。
目が合った瞬間、冷たい刃を首元に当てられた気分に襲われた。
「お前らみたいな白黒の犬は中身が無い。中身がなければ、悩むだけで何も選択できねぇ。選択できないヤツは大抵おもんねぇんだよ」
——………………。
ゆったりと、低い声音を残して肆は立ち上がった。
縁琉は歯を食いしばり、縁琉は歯を食いしばり、嗚咽にも似た声を漏らした。
「……お前、こそ……っ」
掠れた唸りだった。
「分かったように語って……。私の、選択が、私の何が分かるっていうんだ……ッッ」
その言葉に、肆は悩む素振りも無く即答する。
「分かるもなにも……。無いもんは、無いだろ。見りゃ分かる」
「………………。」
目が血走る程に、吐き気が込み上げた。
関節が白くなるほどに拳を強く握る。
「……俺は"彼女"の命令に従うだけ。選択も、悩みも無い。命令の通りに動く」
「……————。」
「そんだけだ」
敵の言葉、犯罪者の戯れ言と分かっていた。
しかし、彼の一言一句が縁琉の体に深く突き刺さっていた。
全て見透かされ、全て切り刻まれたような感覚。
自分の信じていた者、目指した者が壊された。それだけではない。
その事実、数多くの絶望が、縁琉の頭に覆いかぶさっていた。
ルビが上手く機能しなくて滅




