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六話 親睦会・二


そして、その日の夜。


「お疲れさん、早いな」

「お疲れ様です。先輩こそ」

 居酒屋「世味(よあじ)」と書かれた、飲み屋街にこじんまりと鎮座する店。

 集合時間10分前に到着した縁琉は、既に待機していた圓と目が合った。

「幹事である隊長は……?」

 ズボラな印象が強い圓が既に来ているにも関わらず、幹事を務める迦楼羅は気配がなかった。

「……遅刻やろな。いつも通り」

「うそん……。」

 冷静で真面目な印象はすべて消え失せる。

 まだ10分前ではあるが、圓の台詞からして常習犯なのだろう。

「隊長オススメのお店なのに」

 居酒屋の暖簾を眺めながら、縁琉は呟いた。

 オーガナイズ隊員にとって、行きつけの場所らしい。何より、迦楼羅があしげく通っているそうである。

「おう。しかも隊長、まぁた俺のDMにURLとクチコミ送ってきとるわ。もう知ってんねん」

 そう言いながらスマホの画面を縁琉に向けた。

 目を細めながら注視すると、世味のURL、そして迦楼羅本人の感想が書き込まれていた。

『料理の種類が多く、酒も美味しい。店主も親切。カツオのたたきがおすすめ。1人飲みや宴会でもかなり良い』

 と表示されている。

「毎回送って来るんよなこの人。どんだけ好きなん」

「お茶目……。」

 クスリと微笑みを零し、呟いた。

 ——ホントに好きなんだろうな……。

「お疲れ様です」

 遠くから、温度の無い男性の声が聞こえた。

 目をやると、いつぞやのマンバン眼鏡が歩いてきている。歩幅は一定、まるで等速運動のような正確さだった。

「やっぱお前は早いな、お疲れさん」

 圓が挨拶を返す。

 銀縁のスクエア・ナイロールメガネの奥から、二重の鋭い目付きが縁琉を捉えた。

 スラッとした体格はダークスーツを几帳面に着こなしている。

 その貫禄に、縁琉は慌てて背筋を伸ばした。

「お久しぶりですッ、斬瀬先輩!」

 斬瀬 大灯(きせ だいどう)執行監。

 かつて「デポ襲撃任務の検証会議」にて捜査データをまとめ、縁琉のフォローを担った人物でもある。

「ええ、ご無沙汰しております」

 立場も上であるというのに、敬語を崩さない規律の化身。一切の乱れが無いその髪型と服装も相まって、逆に威圧感が絶えない。

「彩太郎〜、買ってきたよ〜」

 縁琉の緊張が解かれるかのように、なんとも緩く伸びた声が斬瀬の背後から聞こえた。

 ——……少女??

 大柄な彼の後ろから千鳥足で現れたのは、1人の小柄な少女だった。

 ふんわりと空気をはらんで跳ねる質感のアンバーブラウン色の髪は、夜のネオンに照らされ熟成ウイスキーのように透明感を示している。

 丸い眉とタレ目に、ヘラヘラと蕩けた笑顔は愛嬌を感じさせるが、頬から耳たぶにかけてほんのり桜色に染まった肌はまるでほろ酔い状態であるかのようだった。

 そして、手にはウコンが2本握られている。

「おう、すまんな」

「いいよぉ、だいどーとコンビニ寄ってたから」

 圓にウコンを渡しながら、彼を見上げた。

 ——えっ……、高校生? でも執行庁のスーツ着てるし……。

 怪訝な顔を湛える縁琉に、圓はウコンをカキリと開栓しながら耳打ちする。

「コイツは、鈴 鳳仙(リン フェンシェン)。確か初対面やったやろ」

 その言葉に、縁琉は「まさか捜査員?」と勘づき、背筋を今一度正した。

「初めまして、切詰縁琉です!」

 鳳仙はその様子を、今にも眠ってしまいそうな目つきで見据える。

「よろしく。日本語名は"ほのか"だよー」

「はい! よろしくお願いします」

 ——年齢が気になるな……。

 その容姿に終始戸惑う縁琉だった。

「すんませーん! 遅れました!」

 遠くから、爽やかな声が響く。

 目をやると大男が走ってこちらに向かって来ていた。注目を引くほどの巨躯は他でもない、ヤマトである。

「時間ピッタリやな」

「ホントすか? 良かったあ……。」

 僅かに息を切らしながら、苦笑いを浮かべる。

「隊長以外は、直帰してから合流するそうです」

 ヤマトの報告に、圓は一瞬だけ悩むように眉間に皺を寄せた。

「まあええか。ほな、先入っとこか」

 しかし、即座にそう言って店の扉をあける。

 幹事兼上司を待たずして、飲み会が開始されようとしている。

「やったあ、飲も飲も〜」

 ほわほわした口調のまま、フェンシェンが一番に店へ入っていった。

 その光景に縁琉は目を丸くする。

「えっ、えっ? 成人してるんですか、彼女??」

 他2人が入店して行く中、扉を抑えている圓は至って無表情で、

「あいつ三十路男性やから大丈夫や」

 と言ってのけながら、無表情で入店する。

 後に続く縁琉は空いた口が塞がらないまま、呆然と瞠目していた。


 *


「改めまして、切詰縁琉準捜査員です。一刻も早く戦力となれるよう、精進致しま——」

「堅苦しいのはいいから、早く飲もうよー」

 座卓に付き、酒が置かれたタイミングで縁琉が挨拶を始めようとしていた。背筋は真っ直ぐに、凛とした振る舞いは儀礼のように厳かである。

 しかし、そんな雰囲気は鳳仙の間延びした口調と、

「そやそや。ゆるーく飲んだらええねん、喰いながら話したらええねん」

 猪口を持った圓が遮った。

 目を丸くする縁琉だったが、圓は縁琉の目の前にあるジョッキを持たせる。

「乾杯の挨拶だけ頼むわ」

「え、えーと、じゃあ……。乾杯!」

 戸惑いつつも、素直に声を張った。

 隊員らが揃った声で、「乾杯!」とグラスを合わせる。

 ——……緩い雰囲気なんだなぁ。

 周りを見れば、獺祭をシェアする圓と鳳仙。

 ヤマトや縁琉にさえ位置を下にして乾杯をする大灯。

 メガジョッキのビールを一気に飲み干すヤマト。

 重苦しい雰囲気は一切無い、極めて普通の飲み会。

「よっこいしょ」

 顔一面を桜色に染めた鳳仙が、圓と縁琉の間に腰を下ろした。そのまま圓の猪口に追加を注ぐ。

「黒ビール飲むんだねー」

 子供のように無邪気な声と見た目で、縁琉が持つジョッキを眺めている。

「一番好きなお酒なので。その、鳳仙先輩はお酒好きなのでしょうか」

 よくよく見れば、先程出会った段階で既に酔っており、現在も日本酒を飲むペースが最も速い。

「めっちゃ大好き」

 ぐにゃりと、仕上がった顔に笑顔を浮かべる。目元には僅かな皺が寄り、そこだけは年齢相応の落ち着きを感じさせていた。

「飲んだくれが。酔ってない時無いやろお前」

「うあー」

 顔を顰めた圓が、鳳仙の丸い頭を鷲掴みにした。

「この感じで、戦闘ではかなり頼りになるんだよな」

 店員が持ってきた酒を受け取りながら、ヤマトが笑みを向ける。自身にはビール、隣の大灯にはスクリュードライバー、縁琉の前に黒ビールを置いた。

「ほら、この痣とか対人訓練で鳳仙先輩に付けられたやつ」

 言いながら、ヤマトが袖を捲り上げる。

 幹のように太い前腕には黄色い痣が2、3箇所。

「体格不利なのに……、凄いですね」

 隣の超小柄な体を尻目に、縁琉は素直に驚きを表した。

「酔拳だよ」

 何らかの拳法の構えのように、両手を掲げる鳳仙。

 その様子に、ヤマトは苦笑いを返す。

「酔ってるだけでしょ……。あと縁琉、ペース早くね。気をつけろよ」

「あっ、すみません……。」

 気づけば、この短時間で三杯目に手を出そうとしていた。

「…………。」

 目の前に、静かにお冷が置かれる。

 目をやると大灯がさりげなく、無言で置いてくれたのだ。

「……あ、ありがとうございます!」

 声を上げた縁琉に、彼は僅かに頷いた。そのまま、グラス片手に食事を続ける。

 ——バーの方が似合うんじゃないか……。

 雰囲気に反して、しっぽりと飲む姿勢に縁琉はやや面食らう。

「雰囲気に流されて、つい」

「そうだよな。特殊部隊もプライベートは緩いんだな」

 唐揚げを一口で頬張りながら、ヤマトは微笑みを向けた。

「まあ現場はキツイけど……。縁琉は、やっていけそうか?」

 やや視線を落としながら、ヤマトはゆっくりと問うた。

 僅かに、縁琉の笑みが引き攣る。

「続けて……、行けることは可能です。けど、最近は少し悩んでて」

「実力の話か? それともマインドとか」

「……両方ですかね」

 自嘲じみた苦笑いを湛える。

「自分の中で選択肢が揺らいでるんです……。命令さえ聞いていれば大丈夫、などという甘えと、強くなれば全て選べるのかなっていう……。悩み過ぎですかね」

「…………分かるよ。一瞬でも判断をミスったら死ぬ。だから俺は、誰かの背を追うことにした。馬鹿だから、真似るのを選んだんだ」

「背を、追う。ですか」

 縁琉の心にも、その行動があった。先日の迦楼羅の背が、脳裏に過ぎる。

「そうそう。迦楼羅さんは、流石に真似出来ねぇけど。圓さんは実力も心持ちも凄え尊敬できるし、"主任"とかも」

「いつでも指導したるでぇ」

 隣の鳳仙に寄りかかっている圓は、既に仕上がった顔つきで声を上げた。

「まあ、入りたてだし。最初は追っかけるだけでもいいんじゃないか」

 そう言って、ヤマトは唐揚げを口に運びながら爽やかな笑みを向ける。

「ええ、そうします」

 若手同士ならではの会話に、縁琉は落ち着いた笑みを零した。

「迦楼羅さんを追っかけてみるのは?」

「ば、化け物を参考にするのはやめといたほうが」

 青ざめるヤマトを見て、縁琉は、

「凄い言われ様……。」

 と冷や汗を浮かべる。


 こじんまりとした店内。団体客はオーガナイズのみであり、カウンターにも人は疎らだったが、心地の良い賑やかさが充満していた。

「他の隊員おっそいなぁ」

 焼き鳥を咀嚼しながら、圓がふんぞり返る。

「お忙しいでしょうから……。」

 しかめっ面の圓を宥めるように、縁琉が口添えした。

 その直後、

「おう、いい感じにやってるな!」

 歯切れのよい、快活な声が座敷席に響いた。

「うおぇッ? 主任っ?!」

 酔いが吹き飛ぶように、圓の目が見開かれる。

 同時に、ヤマトや大灯も面食らった様子で挨拶をした。

「お疲れ様です!」

「すまん、遅れた!」

 見れば、そこにはヤマトと遜色ない程に大柄な女性が立っていた。

 切れ長の鋭い目元に、どこか仏像や仁王像を思わせる"威厳のある静けさ"。尖った質感の長髪を、高めの位置で一本に束ねている。黒漆色に赤銅色の混ざる髪はまるで鬼の鬣だ。

 厳かな雰囲気に反して、屈託の無い笑みからは獣のような牙が覗く。

 ——……この方って……っ。

 かつて書類で見た記憶があった。

 オーガナイズの主任隊員を務めるベテラン、歴戦の古株。

 慌てて、縁琉は立ち上がり声を張った。

「初めましてッ! 新任の切詰 縁琉準捜査員です! この度は——」

「ああ構わねぇ。座れ座れ!」

 しかし、またもや遮られてしまった。その鷹揚な笑顔に、ぎこちなく従う。

「飲み会は緩く行こう」

 そう言いながら、縁琉の隣に腰掛けた。

 常に背筋が通り、隙がない。巨躯でありながら足音が一切しない洗練された所作。

「私は、双津 鬼與円(そうづ きよまる)。よろしくな」

「こ、光栄です」

 ギクシャクと握手を交わす縁琉。

「マジすか、主任が来るなんて……。」

 嬉しさを隠し切れていない様子で、ヤマトが彼女に注文用のタッチパネルを渡す。

「歓迎会には、顔を出さねぇとな。あと別の奴らは書類作業で苦しんでるからパスだそうだ」

「残念だなー。主任で相殺かー」

 鳳仙の呟きに、双津は「良かったぜ」と豪快に笑った。

「うむ、今回の新人も中々良い表情(かお)してんな。期待してるぞ」

 顎を摩りながら、縁琉を見据える。

「はい! ありがとうございます」

 ——なんて貫禄……。

 あまりの迫力に、無意識に姿勢と声音が正される。

「あれ、主任だけですか。隊長は?」

 圓の問に、双津は露骨に口を歪めた。

「まだ来てねぇのか、あの遅刻魔。相変わらず仕事以外はポンコツだな」

「ポンコツ……。」

 あまりの遠慮の無さに、縁琉は目を細めて冷や汗を浮かべた。

「昔から変わんねぇんだよアイツ。新人、何か頼むか!」

 まるで迦楼羅の扱いに慣れているように話を切り替え、パネルを縁琉に傾ける。

 そのフランクな振る舞いに好感を感じながら、素直に画面を眺めた。

「では、双津主任と同じものを」

「俺も!」

 テーブル越しにヤマトが声を上げた。

「よし、なんか変なモン頼んだろ」

 胡座をかいた双津は、笑いながら若手二人を茶化している。

 意外にも親しみやすい双津の参加により、席はより賑やかになっていった。

 その瞬間、

 ガララ————

 店の扉が、やや焦燥を含んだ音と共に開けられた。

「……おっ?」

「えぇ……。」

 いち早く、双津の目がそちらに向く。それに続き圓も呆れたような声を漏らした。

「…………ごめん」

 なんと、迦楼羅がしょんぼりと立ち尽くしていた。

 相変わらずの無表情と静謐な雰囲気だが、心做しか萎縮している。

「テメェこのサムライ野郎! 私が先に来るとかどうなってんだ!」

 遠慮なく双津が抗議し、迦楼羅は僅かに口を引き攣らせていた。

「すまん、帰宅ラッシュに巻き込まれて」

「こんな時間にですか?」

 ニヤつきながら、圓がツッコミを入れる。

「隊長! こちらどうぞ」

「お疲れ隊長ー」

 ヤマトと鳳仙が穏やかに声を掛けた。

 迦楼羅は座敷の端に腰を下ろし、縁琉に目を向ける。

「縁琉、どうだ歓迎会は」

「非常に、楽しめてます」

 厚い気遣いに、笑みを漏らしながら応えた。

 ——…………。

 再び、迦楼羅の口角が上がったように感じた。

「私の行きつけだ。気に入ってくれるとありがたい」

「もちろんです。メニューが豊富で、美味しいので」

「気ぃ使わなくていいんだぜぇ」

 肩を寄せながら、双津が悪戯な笑みを向けた。

「鬼與円……、お前も常連だろう」

「おう、だから今日はガッツリ飲もう」

 ジョッキを掲げ、迦楼羅に擦り寄った。

 その様子は、長年を共にした親密さが伝わってくる。

「ああ。ただ、少しだけ店主に挨拶してくる」

「じゃあ私も一緒に」

 腰を浮かせ、カウンターに向かう迦楼羅を双津が慌てて追いかけた。

「はよう戻ってきてくださいねー」

 向かいのカウンターに座る迦楼羅に、圓は声を掛けた。

 ——仲良いんだなぁ……。

 迦楼羅と双津を眺めながら、縁琉はカウンター奥にいる店主に目を向けた。

 壮年の店主が、にこやかに声を掛けている。

「お! 姫払さんと双津さん、お久しぶりですね!」

「ええ」

「悪ぃな、公務員は忙しくてよ」

 おしぼりを手渡しながら、店主は、

「いつもので?」

 と慣れたように問う。

 常連らしく、迦楼羅は静かに頷いた。

「お前そればっかりだな」

 カウンターに置かれたのは、珍しい銘柄の日本酒とカメノテだった。頬杖を着く双津だったが、彼女の前にも同じ物が置かれる。

「この組み合わせが一番良い」

「あまり頼む人見ねぇよな」

 双津の呟きに、店主は苦笑いを湛えた。

「お二人くらいですかねぇ。ああ、でも——」

 そのまま嬉しそうに続ける。

「先程、カメノテと日本酒を頼まれてたお客さん居たんですよ! あちらの、全身真っ黒い軍服の……て、あれ?」

 店主の示した先、カウンターの端に目をやると、そこには空っぽの席しか残っていなかった。

 空いた皿と日本酒、現金のお代が置かれているだけである。

「…………。」

 迦楼羅は細めた目で、その席を見やった。

「おや、帰ったのか」

「あららいつの間に。ほんとに、さっきまでいらっしゃったんですがねぇ」

 店主は頭を掻きながら首を傾げた。

「…………。」

 ただ迦楼羅一人が、店主の声を聞き流しながら、険しい目付きでその席を眺めていた。


「斬瀬先輩って、このような飲み会に良く来られるんですか?」

 縁琉の何気ない質問。

 大灯の堅物的な印象に、このような砕けた雰囲気への在席はかなり意外である。

「ええ。特にデメリットも無いので」

 未だに姿勢の良さを崩さず、スクリュードライバーを啜りながら静かに答えた。

「けどコイツ酔わへんからなぁ」

 酒で顔を赤く染めた圓が、声を上げる。

「一切、ですか?」

 縁琉が小首を傾げると、大灯は眼鏡の奥で静かに目を細めた。

「……ある程度の酒量までは。水を飲むなり、対策しております」

「おー真面目やなぁ」

 茶化すように圓が笑うが、大灯は気にする素振りも見せずに続ける。

「ただ、酔いを制御できることと、楽しめないことは別です。私も、こうした席には意味を感じています」

「意味ですか?」

「ええ。……現場では、酸いも甘いも経験します。ですので、このような関わりは大事にしています」

 予想外の言葉に、縁琉は思わず瞬きをした。

 常に感情の起伏を見せない大灯の口から、そんな台詞が出てくるとは思っていなかったのだ。

 ——……先輩にも、そういう経験があるんだ。

「…………へえ」

 短く零した声には、素直な驚きが滲んでいた。

 そのやり取りを眺めていた圓が、ジョッキの縁を指でなぞりながら、ぽつりと呟く。

「……しんどいからなぁ。現実を忘れるのも大事や」

 いつもの軽い口調のはずなのに、言葉の端にほんの少しだけ、湿った重みが滲んだ気がした。

 視線は、テーブルの一点——誰もいない虚空に向けられている。

 縁琉が言葉を探しあぐねていると、

「……圓さんも、たまにそんな顔しますよね」

 ヤマトがぽつりと零した。

「あ? なんの話や」

 圓はすぐにいつもの調子で聞き返したが、その瞳の奥を一瞬だけ過ぎったものを、縁琉は見逃さなかった。

 ——今の、何かあったんだな……。

 しかし、それ以上踏み込む間もなく、

「おいおい、手が止まってんな若造ども!」

 カウンターから戻ってきた双津が、豪快な声でその場の空気を割った。

「飲むぞ飲むぞ、歓迎会だろうが!」

「うっす!」

 ヤマトが慌てて居住まいを正す。

「ほら縁琉、遠慮すんな」

「あ、ありがとうございます」

 双津の勢いに押されるように、場の空気は瞬時に賑やかさを取り戻した。

 圓もいつものふやけた笑みを浮かべ、焼き鳥のタレを指先で拭っている。

 ——……酸いも甘いも、か…………。

 縁琉がそう思い直した頃、迦楼羅がようやく席へ戻ってきた。

 腰を下ろす直前、一度だけ振り返り空いたままのカウンターの端にちらりと目をやる。

 誰も、その視線には気づかなかった。

「……迦楼羅さん」

 何気なく、縁琉は彼女に声を掛けた。

「どうした」


 ——目は開け続けると見えなくなる——


 そんな、かつての圓の言葉。

 先程の彼が浮かべた表情を想起する。

「悩んでいるようだな」

 図星を突かれる台詞に、縁琉は無意識に頷いた。

「私は、戦闘しか取り柄が無い……。解決してやれるかは分からんが、話は聞ける」

 不器用なりの慎重な気遣いに、縁琉の胸中が温まる。

「その……。私には、拠り所になるものが無いんです。希薄な理由のまま、命令だけ聞き続けた弊害に、最近直面しています……。」

 迦楼羅は何も言わず、ただ続きを促すように視線だけを返した。

「先輩方を見てて、何か持ってるものが欲しかったと、そう結論付けました。手本を、探そうと……。」

 周囲は双津の豪快な笑い声と、圓が茶化す声で満ちている。しかしこの一角だけ、妙に静かな間が流れていた。

「誰かを、追いかけるのか」

「はい……。未熟なのは理解して、今は迦楼羅の背を追おうかと」

 沈黙が落ちる。

「強くなれば、解決できる。人を救えると、そう思って……。」

 迦楼羅は猪口を傾けることもせず、しばらく縁琉を見ていた。

「……強さには、相応の責任とリスクが付いてくる」

 静かな声だった。

「私がこうなったのは、ただ仲間を守りたかったからだ。単純な動機だ。それ以上のものは、最初から無かった」

「……それでも、強くなれたんですよね」

「ああ。……だが、それでも守れなかった者がいる」

 言いながら、迦楼羅は双津を尻目で眺めた。

 短い言葉の奥に、縁琉は踏み込めない深さを感じた。

 店の喧騒が、一瞬だけ遠くなる。

「強さは、正解じゃない」

 迦楼羅は、猪口に視線を落としたまま続けた。

「ただの手段だ。手段を持たない者より、持つ者の方が、選べる場面が増える——それだけのことだ」

「……それだけ、ですか」

「お前は今、その手段すら持っていない段階だろう。まずは、増やせ。答えはその後でいい」

 それだけ言うと、迦楼羅は何事もなかったように猪口を傾けた。

 ——手段、か……。

 縁琉は、その言葉を噛み締めるように繰り返す。

 迦楼羅は「強くなれば守れる」とは、一度も言わなかった。

 それでも縁琉の中では、何かが静かに輪郭を結び始めていた。


 *


「よォーし、鳳仙ン2軒目行こかー」

「奢ってー」

 人形のように鳳仙を抱えた圓が、据わった目で店から出てくる。

「ちょ、心配なんで俺付き添って来ます。お疲れ様でした!」

 2人に寄り添うように、ヤマトが元気よく挨拶を交わした。

 全く酔った様子の無い斬瀬も、恭しい一礼と共に、

「お疲れ様です。失礼します」

 と言って去って行く。

「おい、縁琉ゥ。悩むんはええことやねん。自分なりの答え見つけて、立派な雄姿見せてくれや」

 遠くから、圓がこちらを見ながら声を上げていた。

 縁琉は嬉しさを隠しつつ、手を振り返す。

 店先に残ったのは、縁琉、双津と迦楼羅だった。

「結構飲んだな、やるじゃねぇか」

 迦楼羅の横に並びながら、双津が微笑みを向ける。

「ありがとうございました、また是非。今日のところは程々にしておきます」

「縁琉、最後に。あまり思い詰めるな」

 目を合わせながら、迦楼羅の落ち着いた声音が落ちた。

「突っ走らず、慎重に、ゆっくりでいい」

「……はい」

 苦笑いを湛え、俯く。

 一拍の沈黙を、双津が破った。

「こいつの言う通りだ。過酷な職場だが、今は着実に手段を集める時だ」

 先程までの豪快さは無く、ひたすらに落ち着いた口調である。

「時間をかけろ。自然と答えは見つかり、強くなる」

「………………。」

「私らの仲間にも、お前のように悩むやつがいた。誰でも、選択に迷う。私も、悩んだ挙句強さを求め続けた凡人だ。

 気張れよ、新人! とりあえず強くなりたいなら、いつでも手伝ってやる!」

 そう言って、相変わらずの迫力で縁琉の肩を叩いた。

 自然と、満面の笑みが顔に浮かぶ。

「はい。必ず、選び抜きます」

「…………。」

 歯を見せて笑い返す双津の横で、迦楼羅は静かに頷いた。心做しか、満足気な表情だった。

 別れの挨拶も早々に済ませ、「迦楼羅! もう一軒行くぞ!」という双津の声を背に、縁琉は帰路に着いた。

 まだまだ消えない、飲み屋街の喧騒と、綺羅星の浮かぶ夜空。

 その下で、一人の新芽が輪郭を帯びようとしている。

「強さは、手段……、か」

 ポツリと、小さな呟きをアスファルトに落とした。

 ——まずは、手段を増やす……。

 か細い目的を胸に、縁琉は歩を進める。

 その足取りは、確かな力が籠っていたのだった。

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