その者の名は
街を歩いていて、はっとする事がある。嫁の手掛かりを探して。歩いているはずなのに。ふと気がつく。
人混みや店のガラス窓。
彼女の姿を探していた。
けして手が届かない。
追い求めてはいけない。
そんな彼女だと知りながら。
そんな時いつも決まって。
深い溜め息が漏れた。
神の嫁に抱く。
罰当たりな恋心。
罰当たりなのか。
そんな僕だからか。神の裁きの日。
それはあっという間にやって来た。
今日は祭りの前日。
うきうきするような浮かれ気分。
高揚する気持ちなど微塵もない。
今まで無為に街を彷徨い歩いていた。そんなわけではなくて。
役所にも警察にも出向いた。
そもそも僕には過去の記憶。
嫁がいた記憶などもない。
「そんな事はあり得ない」
それがこの世界だと告げられる。
過去の記憶が曖昧で「もしかしたら事故か何かで嫁と離れてしまった可能性もある」精神科にも通った。
しかしどの機関に問い合わせても。
「前例がない」
困惑されるばかり。
「君が…この街で暮らせるように」
「この私が手を尽くす!」
円乗さんはそう言ってくれた。
しかし彼女の意思以上に重い。
彼女の神託はこの世界で絶対。
けして覆せないものなのだ。
それも僕は知っていた。
この世界の人々が、安寧に幸福な毎日を過ごせるのは、彼女の神託のおかげだ。この世界の現在と過去は、神の御神託によって舵取りが成されて来た。最初に教わることだ。
それでも彼女が応援してくれたり、僕を気遣ってくれるのが嬉しくて。
本当は一月前までの自分。
半ば諦めていたんだ。
「彼女を失望させたくない」
そんな気持ちに突き動かされて、
僕は何とか今日を生きている。
それでも考えずにはいられない。
僕の暮らすこの世界について。
夕暮れ間近な河川敷を見下ろす土手を歩く。川風に吹かれながら。ふと言葉が口をついて出てしまう。
「どうして僕だけ」
僕だけこの世界に必要ではない。
そんなことがわかってしまった。
夕暮れ。
思わずその場に座り込み。つい泣きたくなる。家に戻り鍵を閉めたら。それで今日は終わる。
今日と同じ明日。
僕に来ない明日。
「1人なのかい少年?」
野良犬にかける声みたい。
背中越しに女の声がした。
それで僕は振り向いた。
通夜の宵にはまだ早い。
葬式帰りか。それとも僕を迎えにでも来たのだろうか。
靡く白銀色の髪に喪服姿の女が1人。そこに立っていた。
片腕に抱えた桐の長箱。
見覚えのある神社の刻印。
円乗さんちの実家のだ。
嫌でも目に入る。
「どうやら…神様はあんたを助けてくれなかったみたいだね!」
「顔の傷まだ治らないんですか」
顔に貼られた、マスキングテ−プみたいな細長い絆創膏を見て。僕は間抜けな答えを彼女に返した。
「ああ、これ?剥がすの忘れてただけ」
彼女は無造作に、顔から絆創膏を剥がして棄てた。川風に吹かれ、絆創膏は何処かに吹き飛ばされた。
「散華」
散る華と書いて散華。
「カフカ島の散華」
それが彼女の名前だった。




