二年間の嘘
◇
治療院でデュアルバ商会の迎えを待つか、それとも馬車の後始末をするか。
どちらが先かと、セドリックは頭を悩ませている。
まさかこんなことになるとは思っていなかった。
いつも頼りになるヴァルターが、記憶を失ってしまうなんて──。
「まぁ、セドリックさん。お茶でも飲んで落ち着きませんか。早朝から呼びだれたせいでどうにも眠くてね」
不貞腐れてなにも話さなくなってしまったセリーヌに付き添いながら、頭を抱えているセドリックにザイードが親切に話しかけてくる。
セリーヌと同室にいるのはどうにも空気が重すぎる。
かといって放置するわけにはいかずに悩んでいたセドリックは、渡りに船だとそそくさと立ち上がった。
セリーヌがお前を殺す──というぐらいの目で睨んできたが、気づかなかったことにした。
濃い珈琲が頭をすっきりさせてくれる。治療院の休憩所でザイードと向かい合って座り、セドリックはありがたくカップに口をつけている。
ザイードは眠そうにあくびを噛み殺し「今日も一日頑張らないとなぁ」と、仕事中とは違うやや間の抜けた声で言った。
「ヴァルター様は定期的に診察したいので、来週また連れてきてくれますか? ヘンドリクセン家にはお抱えの治療師がいるかもしれませんが」
「船医はいますけど、家に在住しているわけではありませんから。奥様に伝えて、また連れてきます」
「時に、セドリックさん。ヴァルター様には、他に病気がなかったのですか?」
「というと?」
思い当たる節がなく、セドリックは首を傾げる。
ヴァルターは健康そのものだった。貿易船での長い船旅の間も元気だったし、睡眠時間も短く、暇さえあれば働いていた。セドリックはヘンドリクセン商会やヘンドリクセン家の内向きの仕事を任されているため、同行することはなかったが、他の船員たちからの報告では、特になんの問題も起こっていなかったはずだ。
「診察をしましたが、体に多くの傷が残っていました。ほとんどが古いものでしたが。後遺症がなければいいのですけれどね」
「あぁ……私たちがいた孤児院はあまり、よい環境ではなかったのです。何回か二人で抜け出して、激しい折檻を受けたものです。その名残ですね。新しい傷は、商船はよく海賊船に襲われますから。怪我も多いんですよ」
「ご苦労をされたのですね」
「昔の思い出です。ヴァルター様は、忘れたかったのかもしれませんね。だから忘れてしまったのかな」
「いや、ただの事故です。それは考えすぎというものですよ」
そうだろうかと、セドリックは溜息をつく。
窓の外に視線を送る。よく晴れた空が広がっている。それはただの空だが、エリカテーナが見る空と、セドリックやヴァルターが見ている空は違うのだ。
お高くとまった貴族のお嬢様め──と、セドリックはエリカテーナに鬱屈した嫉妬を抱えていた。
内心ではセドリックたちのことを小馬鹿にしているのだろう、と。
けれど、結局頼ることになってしまった。あんなに気風のいい女だとは思っていなかった。
「ふふ……」
「セドリックさん?」
「いや、セリーヌ嬢を枕で殴っていたなと、思って」
「エリカテーナ様ですね。お若いのに頼もしい。あんなによい奥方様がいながら、ヴァルター様もどうして道を踏み外してしまうのか」
「ヴァルター様は浮気をしていたわけではありませんよ」
「違うのですか」
「はい。あの方が女性と過ごすとき、それは下心ではなくて調査です。ヴァルター様は人を信用しません。昔はもっと明るかったですが、どんどん他者に対する猜疑心が強くなっていって。だから、例えば商売女を買うとき、それ以外の女の相手をするとき、それは商会のための情報収集以外の意味はないのです」
それに──と付け加えようとして、セドリックは口を噤んだ。
主の秘密を、ぺらぺらと話すのはよくないだろう。
「それでも、エリカテーナ様はお嫌でしょう」
「まぁ、それはそうでしょうね」
「それでもヴァルター様を引き取っていかれたのですから、立派なものです。あの若さで」
「私も、そう思います。奥様とはもっと、なにも考えていない人だと思っていました。嫁いできてからは、奥様は侍女たちとしか話さなかったもので、私はあのかたについてよく知らないのです。いつもにこにこしながら遊んでばかりいました。さすがは貴族のお嬢様だなぁと、私は思っていたのですが」
ヴァルターがエリカテーナを妻にすると決めた時、セドリックは反対したのだ。
ヘンドリクセン商会は十分大きい。貴族の手を借りる必要などない、と。
けれどヴァルターは、爵位を欲しがった。金は手に入れた。ヴァルターに足りないのは、爵位だけだったのだ。
二年前に家にやってきたエリカテーナを見て、セドリックは頭の悪そうな役立たずだと感じた。
なにか尋ねても、にこにこ笑いながら頷くことぐらいしかしない。人形みたいなお姫様だ。無害であることだけが、美徳だった。
あんな風に叱責され、命令されるなんて──。
セドリックは、なんとなく、興奮している自分を感じる。
いやいや、主の妻に興奮してどうすると、きつく眉根を寄せた。非常にまずい。
「奥様は、本当に大人しい人で。ヴァルター様の浮気についても、なにか言ったことはないですね」
「診療所に受診に来たときは、きびきびとしたしっかりした方だと思いましたよ」
「では、ヘンドリクセン家では取り繕っていたのですね。本来の自分を隠して、二年間も暮らしていたのか……」
「家を建て直してもらった引け目もあったのではないですか? ヴァルター様が浮気をしていると知っていれば、心も凍ってしまうでしょう。ヴァルター様の事故をきっかけに本来のご自分を出すことが出来たとは、皮肉なものですが」
それは、確かに。エリカテーナが今の彼女のような様子でヴァルターに話しかけていたら、ヴァルターももう少し心を開いていたかもしれない。
それとも、生意気な貴族の女──と、もっと冷たくしていただろうか。
わからないが、ザイードのいうように皮肉なものだ。記憶を失ったヴァルターが、エリカテーナに好意を示すなんて。
本当は、ずっと好きだったんじゃないか、と思うと、主があまりにも不器用で、不憫すぎる。
そんな話をしていると、迎えの馬車が到着したと、治療院の事務方が告げに来た。




