大きな子供の寝かしつけ
ヴァルターの部屋は、さぞかし悪趣味でぎらぎらしているだろう──なんて思いながら彼の自室に入る。
するとそこは、エリカテーナが思っていたものとは違う、整然と整えられたあまり色のない部屋だった。
壁一面に書架があり、仕事関係の本が詰め込まれている。
それだけでも彼がどれほど努力していたかを感じることが出来る。
机にはこちらも仕事関係なのだろうか、手紙の束やら世界地図や海路図が置かれている。他国から取り寄せたものの一つである地球儀には、事細かに書き込みがされていた。
どの国ではなにが安価で手に入るのか、それはこの国に流通しているものかどうかを、彼は常に考えていたようだ。
「ここは、あなたの部屋ですよ、ヴァルター様」
「そうなんだ。見覚えがないけれど」
「なにか、覚えているものはありませんか?」
「ないかな。本がたくさんあるね。僕は読書家だった?」
「ほとんどが、仕事関係のものですね。仕事熱心な人でしたよ。そうでなければヘンドリクセン商会をここまで大きくすることはできなかったでしょうから」
そう口にして、確かにそうだとエリカテーナ自身も思う。
なにも持たない孤児から、独学で勉強をしてここまで商会を大きくしたのだ。
並大抵の努力で、できることではない。
「仕事熱心なのに、浮気をしていたのか……」
「ヴァルター様、その話はもういいですから」
「二度としない。エリカテーナ、君を傷つけない。本当に、ごめんなさい」
「わかりましたから。ヴァルター様、あなたはとても疲れています。今はベッドに横になりましょう、ね?」
己の浮気に関して、ヴァルターは相当まいっているようだった。
記憶喪失になってしまった悩みよりも、浮気をしていたことを深く思い悩んでいる。
エリカテーナはヴァルターの手を握る。
大きな男性の手だ。けれど今は、とても頼りなく感じた。
「え、エリカテーナ、手を、繋いでくれるの……!?」
「そんなに驚かなくても」
「だって、好きな人とはじめて手を繋いだんだよ。嬉しい」
「ヴァルター様は、記憶を失ってしまい、私とは初対面です。初対面でそんなに人を好きになれるはずがありません」
「どうなのかな。君のことは、ずっと好きだった気がするよ。体の奥のほうで、君が好き、可愛い、大好きって思ってる。記憶はなくしたけれど、体に染みついた感情は残っているんじゃないかな。少なくとも、僕は君のことが、心底好みのタイプみたいなんだ」
「うぅ……っ」
なんてきらきらした目で、素直に感情をぶつけてくれるのだろう。
顔がいいのも相まって、つい絆されそうになってしまう。
好きだと言われたら心を無にしないといけない。今のヴァルターの言葉は、きっとそのうち消えてしまうコップの中の泡のようなものなのだから。
でもちょっと、可愛い。
駄目だ。浮かれそうになる枕で頭を叩いてもらわなくてはと、エリカテーナは嘆息した。
「幼い子供のようなあなたに好きと言われても、よしよしいい子ね、としか思いません」
「子供じゃないよ。だってどう見ても、この体も顔も子供じゃない」
「中身が子供です」
「そんなことはない。でも、よしよしいい子ね、は、して欲しい」
して、欲しいのか。
なんだか墓穴を掘った気がすると思いながら、エリカテーナは部屋の奥にあるベッドに彼を連れて行く。
ベッドサイドに座らせると、靴ひもを解いてあげる。
靴を脱がせて、上着を脱がせ、ベッドそっと横にならせた。
ベッドも、数々の女を連れ込んださぞや華美なものだろう──なんて思っていたのに、そうでもなかった。大きいが、シンプルな作りだ。大きいのは、彼の背が高いので普通のサイズだと体が収まらないからだろう。
むしろエリカテーナのベッドのほうが豪華だし、部屋も華美だった。
「少し、眠い気がしてきた。どうしてだろう、まだ朝なのに」
夜通しセリーヌと愛を語り合っていたからですわ──などと嫌味を言いそうになるが、ぐっと堪える。
エリカテーナは彼の顔にかかった髪を払う。そっとまだ包帯の巻かれている頭を撫でた。
「もう手を、繋いでくれない? 君は僕のことを、嫌っているから」
「嫌っていません。あなたのことは」
「でも、嫌いでしょう。最低な男だよ」
「……ヴァルター様。あなたのことは、嫌いじゃないです。ですから、不安にならないで。眠りましょう」
「もう少し、傍にいて。手を繋いで欲しい。不安なんだ。頼れる人は、君しかいない」
「ええ、いいですよ。安心して、頼ってください」
ヴァルターのことは確かに──嫌い、だけれど。
でも強がっていても仕方ない。記憶喪失というのは一種の病なのだろう。
病人に冷たくするような非情なことはしたくない。
エリカテーナは、ヴァルターの手を握る。彼は安堵したように、口元を綻ばせた。
静かな朝だ。本当ならば、もう見知らぬ街に向けて出立していた朝。
けれど──もうしばらく、ここに留まろう。
出ていくことはいつでもできるのだから。
「僕のことを、教えて欲しい。僕は、どうして孤児だった?」
「それは……」
「聞かないほうがいいのかな」
「いえ、そういうわけではないですけれど」
「じゃあ君の話を聞かせて。エリカテーナは、どうして僕と結婚してくれたの?」
「……家のためです。政略結婚……親が決めた結婚どいえばいいでしょうか。結婚するまで、貴方と会ったこともありませんでした」
「好きな相手と結婚したわけではないんだね」
「好きだという気持ちだけでは結婚できないのですよ。私の立場では」
「どうして?」
「伯爵家という貴族の家に生まれました。貴族は家を守る義務があります。だからその家の子供は家のために生きなくてはいけません」
「不思議だ。じゃあ僕のほうが、よい人生ということ? 両親がいなくて、家もなければ、自由でしょう」
「そういう考えかたもできますね」
やがて静かな寝息が聞こえてくる。ヴァルターは、気を張っていて、かなり疲弊しているようだった。
エリカテーナはその穏やかな寝顔を見ながら考える。
孤児であったことが、よい人生だったなんて、元の彼ならきっと言わないだろう。
でも──エリカテーナはヴァルターのことをなに一つ知らないのだ。
彼に話して聞かせられるような思い出も、彼の人生について知っていることも、ほとんどなかった。




