ヘンドリクセン家の従順な使用人たち
ヘンドリクセン家で働きたい、ヘンドリクセン商会で働きたい──とは、王国で広く囁かれていることである。何故なら金払いがいいからだ。
ヴァルターは能力で人を選ぶ。そのためヘンドリクセン家で働くためには高い能力と従順さが求められる。能力には相応の対価を、ということで、給金が貴族の邸宅の下働きよりも高いぐらいである。
そんな少数精鋭の使用人たちは、礼儀正しくエリカテーナに礼をして、並んで言葉を待っている。
「皆、心配かけてごめんなさいね」
ヴァルターにとっては、突然家の中からぞろぞろと人が出てきた、というような状況だろう。
エリカテーナの背後で長躯を屈めて小さくなって、ぴったりとはりついているヴァルターの姿に、少なからず皆驚いているだろうと思うが、顔に出さないのが使用人たちの優秀さだ。
「ヴァルター様は馬車の事故にあわれたの。体は無事で大きな怪我はないけれど、頭を打った衝撃で記憶を失くしているの。でも、心配しないで。私が彼の面倒をみるわ。それに、家のことも。だから皆は、いつもどおり過ごしてちょうだいね」
使用人たちの間に、はじめてざわめきが起こる。
記憶喪失という言葉が上手くかみ砕けないのだろう。それはそうだ。突然主が記憶を失ったと言われたら、普通は動揺する。あのセドリックだって、狼狽えていたのだから。
「一つお願いがあるのだけれど、このことは他言無用に。商会の者たちにも言わないで。時間が経てば治るものだから、あまり皆を動揺させたくないの」
治るかどうかはわからないらしいけれど、と、エリカテーナは心の中で付け加えた。
けれど、それは言わないほうがいいだろう。雇われている者たちを必要以上に不安にさせる必要はない。
皆がそれぞれ持ち場に戻っていく中、侍女頭のルネアとヴァルターの補佐官のレオンが残った。
ルネアは二十歳過ぎのすらりとした体つきの女性で、この二年間エリカテーナに親切にしてくれている。
レオンはヴァルターの補佐官として商会の実務をセドリックと共に担当している、二十五歳の若い男だ。
セドリックはヘンドリクセン家の管理の仕事もあるので、手が回らない部分をレオンが担当している。
「エリカテーナ様、大丈夫ですか?」
「ええ、ありがとう、ルネア」
「困ったことがあればなんでもおっしゃってくださいね。突然のことで驚かれたとは思いますが」
エリカテーナはルネアの耳に唇を寄せる。
「実はね、いたのよ」
「いた、というと」
「愛人。セリーヌという名の女よ。ヴァルター様と一緒に事故にあったの。昨夜は二人でお楽しみだったようね」
「えぇ……っ」
声をあげようとするルネアの様子を見て、エリカテーナは「しっ」と、唇に指をあてた。
「え、エリカテーナ様……心中お察しもうしあげます」
「ありがとう。でも、今のヴァルター様は自分の行動を全て忘れているの。優しくしてあげてね」
「それは、はい、もちろん」
「セリーヌのことは秘密にしてね、ルネア」
「エリカテーナ様がそうおっしゃるのなら」
ヴァルターから離れてルネアと内緒話をしていたエリカテーナは、レオンから色々と質問されて恐縮しているヴァルターに近づいていく。
彼はすぐに嬉しそうな表情を浮かべて、エリカテーナの傍にぴたりと寄り添う。
本当に、飼い犬みたいだ。
「ヴァルター様、本当に僕のことを覚えていないのですか?」
「悪いけれど、わからない」
「なんてことだ……」
「レオンさん、久しぶりね」
「あ……あぁ、はい。エリカテーナ様、ご無沙汰しています」
レオンは商会側の人間なので、ヘンドリクセン家に来ることは少ない。
基本的には、王都の港の傍にあるヘンドリクセン商会に在住している。五艘の商船と物流の管理、貿易品の地域ごとの値段の管理が彼の仕事だ。
彼もまた庶民の出で、エリカテーナのことは怖がっている。貴族は怖い、という認識があるらしい。
「こんなことになってしまい不安でしょうけれど、先程も言った通り、内密に。皆を不安にさせたくないこともあるし、ヴァルター様の身を守るためでもあるの」
「それはわかります。ヴァルター様には敵も多いですから」
「ヴァルター様が動けない分、私がなんとかするわ」
「エリカテーナ様が?」
貴族のご令嬢になにができる──という嘲りが、若干含まれた声音だった。
レオンの言いたいことはよくわかる。エリカテーナはこの二年、ヘンドリクセン家で遊んで暮らしていた。
子作りをするわけでもなく、家の管理をするわけでもなく。
しかし、やらなかったわけではない。させてもらえなかったのだ。
ヘンドリクセン家にはセドリックがいたし、子を孕まないのもそういった関係がヴァルターとはなかっただけだ。
別に、自分が有能だと思っているわけではない。
でも、できることはあるはずだ。これでも一応、貴族学園で教育を受けている。
元々母は、エリカテーナを高位貴族に嫁がせるつもりだった。それ故、教育熱心だったのだ。
「ええ。できることはするわ。だからあなたも、協力してね。私を嫌っているかもしれないけれど、今だけは皆で乗り越えましょう」
「き、嫌ってなど」
「では、怖い?」
「怖いわけでは……」
「伯爵家の産まれだけれど、私は今、ヴァルター様の妻よ。この結婚を拒否したことはないわ。ヴァルター様とは上手くやっていくつもりだったの。彼は私を、嫌っていたけれど」
「僕がエリカテーナを嫌っていたの?」
大人しかったヴァルターが、エリカテーナの肩を掴んで顔を覗き込んでくる。
「ヴァルター様は少し黙っていてくださいね、ややこしくなるので」
「はい」
実にいい子だ。もういっそこのままでいいのでは、と、エリカテーナは思った。
しかしそれでは一生離縁できないので、それはそれで困る。
「ヴァルター様は、エリカテーナ様のことはあまり話しませんでした。仕事熱心な方でしたから」
「女性にも熱心だったようだけれど」
「どうなんでしょう、僕はよく知りません。個人的なことを話すような人ではなかったので」
ともかくわかりました、と、レオンは商会に出社していった。
今必要なのは、それぞれがいつもの日常を過ごすことだろう。
その上で、足りない部分をエリカテーナが補えばいい。
「ヴァルター様、実感されたと思いますが、あなたは偉い立場にいたのですよ」
「あぁ……そうみたいだね」
「でも、心配ありません。私がついていますから」
「エリカテーナ……」
「なにか思い出したことがあったら言ってくださいね。ヴァルター様、怪我がなかったとはいえお疲れでしょうから、しばらく部屋で休みましょう」
「一緒にいてくれる?」
「できるかぎり」
ずっと、というわけにもいかないだろうけれど。
エリカテーナは彼を自室に連れて行く。夫婦の寝室は別々で、エリカテーナがヴァルターの私室に入るのはこれがはじめてだった。




