無駄に広く不必要なほど大きな家
エリカテーナの背後に、ぴったりと近づいてヴァルターは家までのエントランスを歩く。
馬車を降りると道の左右によく手入れされた花壇があり、玄関の扉の前には常に番兵が待機している。
金目の物目当てに強盗が入る危険もあるので、警備は厳重だ。
警備のための私兵が二十名程度。使用人たちはざっと五十名ほど。エリカテーナの侍女は三人。あとは家令のセドリックぐらいしか住んでいない。ヴァルターとはあまり人を信用しない男だった。
金で繋がった関係の者は信じているようだが、特別親しい者を家に入れたりはしない。
セドリックとは、孤児院からの関係らしいので、血は繋がっていないが家族と呼べるのは彼ぐらいだろう。
畑や森、小さな礼拝堂や噴水まであり、ちょっとした乗馬も楽しめるほどに敷地は広く、三階建ての家も城のように大きいが、ヴァルターはあまり家に戻らず、エリカテーナは家を持て余し、セドリックは細々した書類の処理のため、家にこもっていることが多い。
本当の意味での居住者はほぼいないのに、家だけがとても広い。まるで王様の住処のようだ。
そんな家を前にして、ヴァルターは完全に臆していた。
なにがそれほど怖いのかはわからないが、どうにも広い空間が苦手なようだ。
「帰ろう、エリカテーナ。ここは僕の家じゃない」
「ヴァルター様の家ですよ。私とあなたの家です」
「じゃあ、エリカテーナに全部あげる」
「そんな、突然財産分与の話をされても、困ります」
離縁の気配に気づかれたのかと、エリカテーナは一瞬びくりと震える。
しかし、ヴァルターは深く考えている様子はない。子供が菓子をわけてくれる程度の間隔で、家をエリカテーナにあげると言っている。
やはりこれでは、ヘンドリクセン商会の仕事は難しいだろう。
「いらない? 全部あげるよ。エリカテーナにはずっと、僕の傍にいてほしい。僕が最低な男だったことはわかっている。でもこれから、いい人になるから」
「お気持ち、ありがたくいただいておきますね。ヴァルター様、色々と思い出すまでは無理をしないでください。私はあなたの傍にいますから、心配しなくても大丈夫ですよ」
「エリカテーナに見捨てられたら、僕は生きていけない」
「セドリックもいますよ」
「あの人は、奥さんじゃないし、僕はエリカテーナのことが好きだから」
「はぁ」
昔は弟も、姉さん大好き! と言ってくれたものである。
今は口が裂けても言わないだろう。十五歳の弟は、とても微妙な年齢なのだ。
反抗期というほどでもないが、昔の可愛げは失われている。
好きだと言われても、曖昧な返事しかできない。
ヴァルターの顔をして、そんなことを言わないで欲しい。
うんざりするか、げんなりするぐらいの対応しかできないのだ。あとは、嘘つきめと、鳩尾に一発きめるぐらいしか思いつかない。
人生に選択肢があるとしたら
・殴る
・抓る
・急所を蹴る
ぐらいだろう。
色々強がってみたところで、二年間放置されてそれなりに傷ついたし、浮気の気配を感じたら腹が立つ。
それが女心というものである。ねぇ、お母様。そうですよね。と、天国の母に語り掛ける。
まったく、淑女というのは難しい。顔で笑って心で泣くのが正解だとしても、エリカテーナは本当は存分に怒り、思い切り泣きたかったのだ。
「僕に好きって言われると、嫌だよね」
ヴァルターはヴァルターではないので別に嫌ではない。
ややこしいけれど、エリカテーナはそこまで狭量ではない。単純にヴァルターの顔をしたヴァルターではないようなあるような微妙な立ち位置にいる男に好きだと言われても、心から喜べないだけだ。
生まれたばかりのくせに、このヴァルターもませた子供である。二十八歳だが。
やはり女好きの血は、記憶喪失になっても消えないのだろうか。
「君のことが、すごく好きだよ、エリカテーナ。だってすごく可愛い。真っ赤な髪も金色の瞳も太陽みたいだ。大きな目も、小さな鼻も、小さな体も全部可愛い」
「可愛いといわれるような年齢ではありませんよ。もう二十歳です」
「可愛いと言ってはいけない?」
「いけなくは、ないですけれど」
小鳥の囀りのようなものと思っておこう。
ヴァルターは家の大きさに怯えたり、かと思えばエリカテーナを口説こうとしてきたり、忙しい。
感情表現が非常に素直なのだ。
生前のヴァルターとは真逆である。兎角感情を出さない男だった。
いや、死んではいないけれど。
「うわ、大きいね……こんなに大きな家、なんのために建てたんだろう」
扉を開くと、広いエントランスホールが現れる。中央には幸運を象徴する金の女神像が鎮座している。
花瓶には花が飾られ、至る所に高価な置物がある。華美な印象の家である。
エントランスホールだけで生活できそうなぐらいに広い造りになっている。
ヴァルターはそれを見回して、溜息をついた。
「それだけ、成功が嬉しかったのでしょう。ヴァルター様は、元々孤児院で生活をなさっていました。靴磨きからはじめて、手にしたお金で商売をはじめました。まずは馬を買い、隣街で安値で買ったものを別の街で売り、そのうち貿易商にまでのぼりつめたのですよ」
ヴァルターの扱う品は多岐に渡る。宝石から、雑貨、食料品まで。香辛料の類や砂糖などは、ヘンドリクセン商会がこの国に流通させたと言っても過言ではない。おかげで食事事情もだいぶ変わった。
以前は塩のみで味付けられたものがほとんどだったが、今はだいぶ、食生活が豊かになっている。
「頑張ったところで、浮気をするような男では……」
「え、ええ、まぁ、そうですね……きっと色々あったのですよ」
色々──なにがあったのかまでは知らないが。
エリカテーナが部屋の奥に進み使用人たちを呼ぼうとすると、異変に気づいたのだろう。
ぞろぞろと、エリカテーナとヴァルターの元に家で働く人々がやってきた。




