浮気男の謝罪
治療費の支払いは後日明細をヘンドリクセン家に届けてくれるということになった。
治療院の事務方とエリカテーナは言葉を交わし、迷惑料として多めに支払わせてもらうことを告げると、酷く恐縮されてしまった。
眩暈がするほど山のように、やらなくてはいけないことが溜まっている。
別室で横になっている御者を見舞い「此度はもうしわけないことをしましたね」とエリカテーナが謝罪すると、彼は泣きながら自分を責めるので、あなたは悪くないと告げた。
全てはまだ暗いうちに馬車を走らせるような愚かなことをしたヴァルターが悪いのだ。
セリーヌと愛し合うのは好きにすればいいが、せめて夜がすっかり明けるまで大人しく部屋にいればいいのに。そうすればこんなことにはならなかったのにと、エリカテーナは天を仰ぎたい気持ちになる。
大破したまま放置されている馬車の処理と、デュアルバ家への報告をセドリックに命じた。
主の不貞の処理は、家令の役割だ。あとはお前がなんとかしろと無言の圧力をかけると、彼は恐縮しながら「承知いたしました、奥様」と、何度も頷いていた。
「セドリック、処理が終わったらすぐに戻りなさい。ヴァルター様の本日の仕事について私に報告なさい。不必要なものはキャンセルし、必要なものは私が変わります」
「はい、奥様」
ヴァルターの記憶が戻るまでは、家と商会を守るために働く必要がある。
それまで離縁は延期ね──と、エリカテーナは溜息をついた。
セドリックがいなくなり、看護人からヴァルターを連れ帰る許可を得てエリカテーナは彼の病室に戻った。
すると、ヴァルターは部屋の隅に膝を抱えて座っていた。
長身の男が縮こまって膝に顔を埋めている姿は、怯える子犬そのものである。子犬というほど小さくはないのだが。
エリカテーナは幼い日の弟のことを思い出す。
五つ年下の弟は、エリカテーナと違い臆病で気が弱かった。大雨の日、雷に怯えて毛布にくるまり小さくなっている彼を、エリカテーナはよく抱きしめてあげたものである。
そのうち抱きしめようとすると「姉さん、もうやめて」と逃げるようになってしまった。
その上「姉さんはすぐに物を忘れる」と嫌味まで言うようになったのだから、立派なものである。
幼い弟に似ているなと思うと、ヴァルターに対して慈愛の気持ちが湧いてくる。
エリカテーナを侮辱し続けた男ではあるが、今の彼には記憶がないのだ。
嫌う必要も、責める必要もない。
「ヴァルター様、どうされました? お家に帰りましょう」
幼子に語りかけるように、エリカテーナは優しい声音でヴァルターに話しかける。
彼はゆっくり顔をあげた。青ざめた端正な顔には、絶望が浮かんでいる。
「エリカテーナ、僕は自分のことがわからない」
「はい」
「記憶がないんだ」
「ええ、そのようですね」
「君のような可愛い人を奥さんにしたのに、僕はどうして浮気を?」
「え、ええ、ど、どうしてでしょうか……」
そんなこと、エリカテーナにわかるはずがない。
女好きだからじゃないのかしら──とは思えど、今のヴァルターにそれを告げるのは酷だろう。
「ごめん。君にこんなことを聞いても、仕方ないのに」
「いいえ、その、私も上手く答えられなくて」
「答えられるはずがない。僕は君を傷つけていたんだろう? それなのに、君は僕に優しくしてくれる。ごめんなさい、エリカテーナ。本当に、ごめん。元の僕が、ひどいことをして……!」
潤んだ瞳に涙が浮かび、ヴァルターは床に額を擦りつけて謝った。
エリカテーナは慌てて彼の元に行き、両腕を掴んで彼の顔をあげさせる。
今のヴァルターに謝ってもらう必要はない。それは元々のヴァルターの罪だ。今の彼は、ヴァルターの姿をした別人である。
赤子に罪はないだろう。
「顔をあげてください、ヴァルター様。もし謝罪をしたいのなら、全て思い出した時にしてください。今のあなたは、何も覚えていないのですから」
「でも、僕は酷い男だ。最低な人間だったのだろう。君を奥さんにする資格もないような」
「大丈夫です。気にしないで。あなたが治るまでは、傍にいますから」
「治る、までは……」
「ええ。帰りましょう。家に戻ればなにか思い出すかもしれませんよ」
全てを思い出したヴァルターが、今のように震えながら謝るなんて考えられない。
ヴァルターが愛しているのはセリーヌで、エリカテーナのことは歯牙にもかけていないか、寧ろ嫌っているはずだ。
そのうち思い出せば、元の関係に戻るだろう。
今は──子育てのつもりで、ヴァルターの傍にいよう。
妻としての義務だと、エリカテーナは自分に言い聞かせた。
ヴァルターを連れて馬車に乗り、家に戻る。
彼は街の風景を小窓から興味深く眺めていた。
「大きな街だね、エリカテーナ」
「ええ。ここは、アルファリア王国の中心、国王陛下が治める王都です。国の中では一番大きな街ですよ」
「僕は、どういう人だった?」
「あなたはヘンドリクセン商会の代表。貿易商です」
「貿易……」
「他国に赴き、買いつけをして商品を流通させるものですね。大きな船も持っていますよ」
「船……」
エリカテーナの知識を彼に伝えるが、彼の記憶の琴線に触れるものは、なにもないようだった。
ヴァルターは、王都の高級住宅地の一角にあるヘンドリクセン家に辿り着くと、そのあまりの大きさに言葉を失っていた。




