浮気相手との対決
縋りつかれたヴァルターは、明らかに怯えている。
それもそのはずだ。彼は今、生まれたての幼児のようなもの。二十八歳の幼児である。
それなのに、今さっき馬に轢かれてきたような女に縋りつかれたら怖いだろう。
それにしても、ずたぼろなのに元気ね──と思いながら、エリカテーナは女の様子をしげしげと観察する。
ザイードは咎めるべきかどうするべきか迷っている様子だ。セドリックは慌てふためいている。
彼の視線は女とエリカテーナを行き来しているので、まぁ、十中八九浮気相手だろう。
ヴァルターを愛しているわけではないが、妻であるエリカテーナの前に堂々と現れて、挨拶もせずにヴァルターに縋りつく女の行動は感心できない。慎みがない。無礼極まりない。
「あなた。ヴァルター様が怯えているわ」
とりあえず、怯えているのは本当なので、助ける義理はないようであるものの、若干釈然としないものを感じながらエリカテーナは女の肩を掴んだ。
「触らないで!」
ぱしんと、女に手を払われる。なんて失礼な女なのだろうと、エリカテーナは眉間に皺を寄せて憤怒の表情を作りそうになって、なんとか穏やかな笑顔に表情を変える。
母直伝の作り笑いである。
エリカテーナはすぐに感情が表情に出てしまう。それでは貴族の妻としてやっていけないと、毎日小一時間鏡の前で練習させられた。表情筋が死ぬかと思った。
因みに、かつて若かりし頃父も火遊びをしたことがある。その時もこの笑顔で乗り切ったらしい。
エリカテーナが父に花瓶をぶつけようとしに行くのを止められた、十五の夜。懐かしい思い出だ。
「せ、セリーヌさん、エリカテーナ様になにを……」
セドリックが虫が鳴くような小さな声で女に注意する。
セリーヌという名前ね、と、エリカテーナは心の中で反芻した。
まったく情けないセドリックだ。しかし、ヴァルターの手前遠慮しているのだろう。
おそらくセリーヌはヴァルターの愛人で、セドリックが遠慮するぐらいには寵愛を受けていた。
つまり、そう。
差出人不明の手紙の主だ。
「セリーヌ」
「うるさいわね、なんなの? 私のことはレディ・セリーヌとお呼びなさい」
エリカテーナが名を呼ぶと、セリーヌはぎろりと睨みつけてくる。
「エリカテーナ、この化け物みたいな女は、誰?」
ヴァルターがエリカテーナに助けを求めてくる。
お前の愛人だが。
と、言いそうになり、エリカテーナは言葉を喉の奥に押し込んだ。
口も悪くなってしまいそうだ。しかし、この状況で怒るなというほうが無理な話ではないだろうか。
「ば、化け物……!?」
「怖い顔だ。エリカテーナが天使だとしたら、君はまるで潰れたサワガニのようだ」
「潰れたサワガニ……」
潰れたサワガニ……と、エリカテーナとザイード、セドリックも呟いた。
潰れたサワガニの合唱で飽和する病室の中、セリーヌだけが戸惑いながらぱちぱち瞬きを繰り返している。
本来の口の悪さというのは、記憶を失っても残っているのだろうか。
いや、エリカテーナはヴァルターが『お前はまるで潰れたサワガニだな』と言っているところは見たことがないのだが。
「なんてことを言うの、ヴァルター様! 私たち、朝まで愛し合ったじゃない! 私を家に送り届ける途中で、馬車が横転したのよ。あの御者、信じられないわ。たいした怪我がなかったからよかったけれど、ドレスも髪もめちゃくちゃよ。ヴァルター様も死んでしまうところだったのよ、無事でよかった……!」
「僕の奥さんは、エリカテーナだけれど……君は誰」
「セリーヌよ。セリーヌ・デュアルバ! デュアルバ商会の娘よ、忘れたの?」
「知らない」
「あれほど愛し合ったのに、どうしてそんな嘘をつくの!」
ヴァルターは「愛人……? 僕は、浮気を……?」と、頭を抱え始める。
あまりにも可哀想なので、エリカテーナは助け舟を出すことにした。
「落ち着きなさい、潰れたサワガニ。……レディ・サワガニと言えばいいかしら」
「な、なんですって!」
エリカテーナはとりあえず、やり返すことにした。
別にヴァルターを巡って争いたいわけではない。愛し合っているから別れろと言われたら、自分のほうがヴァルターを愛している、という気はないのだ。
ただ、デュアルバ商会といえば、王都で織物を販売している中堅の商会である。
ヘンドリクセン商会の取引相手ではあるものの、その規模は全く違う。
庶民の上に、ヘンドリクセン家よりも弱小の商家の女に小馬鹿にされる筋合いはない。
また差別してしまいそうだ。どうしてヴァルターの周りの者たちはこうも喧嘩腰なのか。
エリカテーナも淑女として嫋やかに対応したいのに、環境がそれをさせてくれない。
環境が悪い。そういうことにしておこう。
「怪我をした夫を引き取るのも、治療費を払うのも妻の役目。あなたの出る幕はないので帰りなさい。セドリック、デュアルバ商会に連絡を。迎えを頼みなさい」
「はい、奥様……!」
いつもエリカテーナ様と、親しくもないくせに不遜にもほどがある名前呼びをしてくるセドリックだが、呼び名が奥様になっている。
セドリックは、頼る相手がいないと生きていけないのだ、きっと。そしてエリカテーナを主に選んだらしい。
「ありがたい。このお嬢さんは、身分を言わず、ヴァルター様に会わせろとばかり言って、困っていたところでした」
「ザイードさん、苦労をかけますね」
「いいえ、怪我人の治療が私の役目ですから。しかし、エリカテーナ様がきてくださってよかった」
「ちょっと、勝手に話をすすめないで!」
セリーヌが、エリカテーナに向かって掴みかかってくる。
エリカテーナはその突進を避けると、ヴァルターのベッドの上にある枕で、セリーヌの後頭部をばしんと、叩いた。
「あぁ、手が滑ったわ……!」
先に手を出そうとしたのはセリーヌなので、エリカテーナはなにもわるくない。
天国の母もあなたは悪くないと言っている。きっと母も父の浮気相手を枕でぶん殴りたかったはずだ。
「ザイードさん、大変です! 患者が倒れました、きっと怪我の後遺症です! ヴァルター様のことは私に任せて、治療をお願いしてもいいですか?」
「はい。任せてください。皆、来てくれ。サワガニ……ではなくて、セリーヌ嬢を運ぶぞ」
ザイードが呼ぶと、看護人たちがやってきて皆でセリーヌを抱えて部屋から出ていく。
「暴力よ! あの女、私に暴力を!」
という叫び声が、廊下の向こうに消えていった。
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