ヴァルター・ヘンドリクセンは記憶喪失である
エリカテーナたちの来訪を看護人から聞いた治療師が、扉をノックして中に入ってくる。
深く皺の刻まれた顔が人生の長さを感じさせる治療師は、ザイード・ドミニクという、王都では評判の元軍医だ。
エリカテーナは頭痛薬をもらうために、数度ドミニク治療院を訪れたことがある。
「ザイードさん、この度は夫が大変なご迷惑をおかけしました」
「あぁ、やはり、エリカテーナ様の夫のヴァルター様で間違いないですね、この方は」
「やはり、というと」
「横転した馬車に描かれていた、ヘンドリクセン商会の紋しか身分を証明するものがなかったもので。命に別状はなく、目立った外傷もありません。馬車は半壊していましたから、命が無事で幸いでした。悪運が強いのでしょうね、ヴァルター様は」
「夫は頭を打ったのでしょうか」
当の本人であるヴァルターは、エリカテーナが「夫」と言うたびに、嬉しそうに尻尾を振っている。
実際には尻尾はないが、エリカテーナには幻の尻尾が見える。
やめて欲しい。正直、不気味だ。
「もうお話はされましたか?」
「ええ。どうにも、混乱しているようですね」
「混乱、と言えばいいのか……あまり前例がないものですから、なんとも言い難いことではあるのですが、ヴァルター様は頭を打った衝撃で、記憶を失っているかもしれません」
「記憶を……?」
「記憶を!?」
訝しむエリカテーナの声に覆いかぶさるように、セドリックが叫ぶ。
あまりのことに普段の冷静さの仮面が剥がれ落ちてしまったのか、真っ青になって震えながら「なんということだ……」とぶつぶつ呟いている。こちらも不気味だ。
エリカテーナは胸元に押し込んである離縁状に想いを馳せる。
本当ならばすでに家を出奔していたはずの時間だ。昨日の夜は、その後の自由な生活について考えていてあまり眠れなかった。
父には何度か離縁を訴えたが、聞いてくれなかった。
ヴァルターには家を救ってもらった恩義があり、もしまたなにかあったら助力を──という下心もあったのだろう。
ヴァルモン伯爵家は、ヴァルターからの支援で借財の補填をしてもらい、援助資金で領地経営も立ち直り、もう心配するようなことはない。
それでも父は、エリカテーナにヴァルターの妻でいろと言う。
娘としての義理はもう、果たした。
もうしわけないが、ヴァルモン伯爵家については、弟と父であとはどうにかして欲しいと、エリカテーナは離縁をすると決めた日から、すっぱりと自分と家を切り離したのだ。
それなのに、肝心の冷酷で浮気性で嫌な男である夫が──記憶喪失なんて。
ふざけるなとその横面を今すぐ枕でぶん殴ってやりたいが、なんとか堪える。
相手は怪我人だと自分に言い聞かせ続けた。
「記憶を失うなどということが、起こるのでしょうか」
エリカテーナはもう一度、ザイードに尋ねる。彼は難しい顔をして、頷いた。
「ありますね。人の脳とは、不思議なものです。全ての機能がまだ解明されたわけではありません。年老いていくごとに、人は記憶を失う……忘れてしまうでしょう。脳の中にはそれがあるのに、記憶の保管庫の扉を開くことができずに、忘れたという状態になってしまう。エリカテーナ様は幼い頃のことをすべて思い出せませますか?」
「いえ、全てというわけでは……」
思い出せないことのほうが多い。エリカテーナは、どちらかといえば忘れっぽい性質だ。
嫌なことは一晩眠れば忘れてしまう。それはあなたの長所だと、母にはよく褒められた。
弟には『姉さんはなにも覚えていない』と、呆れられている。
なにも覚えていないわけではない。結婚した日に、ヴァルターに侮辱された恨みは忘れていない。エリカテーナにとっては珍しいことである。
「それと同じ……というのは暴論ですが、衝撃によって記憶の回路に不具合が起こり、全てを忘れた状態になっている、といえばいいでしょうか」
「治るのですか」
「治るかもしれませんし、治らないかもしれません。はっきりとは言えません」
「生活に支障は?」
「不思議なものですが、生活記憶は残るのです。例えば、食事の動作や、入浴や着替え、文字を書いたり読んだり。健忘症状も、ある程度の年齢までは覚えていたりするのですが、ヴァルター様の場合は自分の名前や出自や人間関係を全て忘れているので、突然大人の男がこの世になんの記憶も持たずに生まれた状態、と言えばわかりやすいでしょうか」
「はぁ」
わかるような、わからないような。
ともかく、ヴァルターは己が孤児であったことや、ヘンドリクセン商会を起業したこと、愛人がいたこと、妻を蔑ろにしていたことなどを、すべて忘れている。
困ったわね──と、エリカテーナは心の中で呟いた。
まさかこの状態の夫を置いて、さようなら、あとはよろしくね──なんて逃げてしまったら、ヴァルモン伯爵家の娘はなんという悪魔か、ということになってしまう。
それは、エリカテーナが求めるところではない。
エリカテーナは、夫を不倫相手と幸せにするために身を引き、どこか遠い場所で庶民として暮らしている、心優しい悲劇の女でなくてはならないのだ。
そうしなければ、これからもヴァルモン伯爵家を守らなくてはいけない父と弟の立場が悪くなってしまう。
「あぁそうか、ならば納得いたしました。ヴァルター様が私を忘れるわけがありません。一緒に泥水を啜りながら夢を語ったあの日々を……! ヴァルター様は記憶喪失……記憶喪失……? ヘンドリクセン商会はこれからどうすれば……!」
なにかしらをぶつぶつ呟いていたセドリックが、突然叫び始める。
エリカテーナは深い溜息をついた。もしかしたら沈着冷静が服を着て歩いているように見えたセドリックは、そう見えただけで、不意のトラブルが苦手なのかもしれない。
「落ち着きなさい、セドリック」
「は、はい……!」
エリカテーナは、はじめて──己の言葉で彼に伝えた。
今までは、家の中で大人しくしていた。伯爵家を救ってくれた恩義もあったし、亡くなった母からも、淑女らしく夫を立てて、半歩引いて、微笑んでいなさいと口を酸っぱくするほど言われていたのだ。
だがこうなってしまっては、半歩引いているわけにはいかない。
そんなことをしていたら、ヘンドリクセン商会が倒産してしまう。
「なんのために私がいると思っているのですか。ヴァルター様の記憶が戻るまでは、私がなんとかします。ザイードさん、ヴァルター様はしばらくの入院が必要ですか?」
「いいえ、記憶を失っただけで、体は問題ありません。自宅に戻り、いつもの生活をしたほうが、記憶が戻る可能性が高いかもしれません」
「でしたら家に──」
「ヴァルター様!」
連れて帰ると言おうとしたが、その前に、ばん! と騒音を立てながら、扉が開いた。
そこには金の髪を乱した、それなりに美しい女が立っていた。
エリカテーナは二十歳である。彼女はエリカテーナよりもやや年上に見える。
ついさっき馬車にひかれてきたように服や髪を乱した女は、エリカテーナの横を風のように通り過ぎ、ヴァルターに縋りついた。
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