混乱する男
エリカテーナはピシッと音がでるほどにその場に凍り付いた。
今この男は──可愛いと言わなかっただろうか。
この二年でエリカテーナとヴァルターが交わした会話といえば
『ヴァルター様、このところのお仕事の調子はいかがですか』
『お前が心配するようなことはない』
ぐらいのものである。
エリカテーナは伯爵家の令嬢、ヴァルターは元庶民だが、嫁いだ日から礼儀正しく彼を旦那様として扱っている。
対してヴァルターもエリカテーナを一応は嫁と思っているのだろう。とても尊大な態度で、お前、などと呼んだ。
その度にエリカテーナは、この男はなんなの……と、無言で寝室のクッションを殴りつけていたものである。
元来、エリカテーナはさほど大人しい性質ではない。少年たちに交じって野山を駆けたり馬に乗ることが好きだったが、それでは結婚相手がいなくなると、母に令嬢としてみっちり躾けられた。
そんな母も、流行病で三年前に亡くなってしまった。
母が生きていたらエリカテーナを庶民と結婚させるなんてありえないと、父に食って掛かっていただろうが、背に腹は代えられない。
ヴァルターのヘンドリクセン商会は、王都で一番の資産家だ。
国家と同等──というのは言い過ぎだが、伯爵家を建て直す資金をはした金と言いきってしまうほど、豊かな資産を持っている。
ヴァルターとの縁談は、家にとってはまさに渡りに船だったのだ。
「ヴァルター様、なにをおっしゃっているのでしょうか……」
「僕は、ヴァルター、という、名前?」
一言一句を確認するように、舌で転がすようにしながらヴァルターは言葉を紡いだ。
どうにも拙い。子供のようだ。彼の話しかたではない。
ヴァルターは『俺はヴァルターという名か?』と言うだろう。彼がそんな間の抜けた質問をするなど考えられないが。
さほど大きくない部屋の中央に置かれた白いベッドで半身を起こしたヴァルターの頭には、包帯が巻いてある。
長く美しい銀の髪と真紅の瞳を持つヴァルターは、愛人がいるだけあって見栄えのいい男である。
意思の強そうな太い眉に、高い鼻梁。薄い唇は商人らしく、人前では優しげに笑んでいる。
その笑みが、エリカテーナに向けられたことは一度としてなかったが。
大抵の場合不機嫌そうにしている顔が、今は無邪気に笑っている。
長い睫に縁どられた真紅の瞳が、熱心にエリカテーナを見ている。
「君はとても、可愛いね。うん。すごく可愛い。こんなに可憐な人が、この世の中にいるんだね」
「は、はぁ」
「僕はヴァルターという名前なんだね。君は?」
「エリカテーナです」
「エリカテーナ! 名前も可愛い!」
とても二十八歳の男とは思えない口調で言って、ヴァルターは尻尾を振る子犬のように、にこにこ笑っている。
はじめておいしいものを食べた赤子のようだ。
エリカテーナは眉間に皺を寄せる。
二年間エリカテーナを嫌っていた男とは思えない豹変ぶりだ。
頭を打って一時的におかしくなっているのか、それともなにかしら後ろめたいことがあって、媚びをうっているのか。どちらなのかと、悩む。ともかく命は無事で、案外元気そうだった。
「ヴァルター様、よくぞご無事で!」
「エリカテーナ、この人は、誰?」
「私はセドリックです。幼い頃からあなたと二人、手を取り合って生きてきたではありませんか」
「すまないが、知らないな」
セドリックは激しいショックを受けたらしく、よろよろとよろめいてその場に座り込む。
気持ちはわかる。それはもう衝撃だろう。エリカテーナも座り込みたい。
しかし、ヴァルターの前で弱みは見せたくなかった。
伯爵令嬢であるエリカテーナが、元庶民の──その上、孤児だった男に冷遇されている。
その事実はエリカテーナの自尊心を少なからず傷つけていた。
そのため、泣いたり縋ったり、弱いところは見せたくなかった。
あなたがいなくても別に平気です──というような顔をし続けていたし、今もし続けている。
エリカテーナは、庶民や孤児を卑下するような考えの持ち主ではない。
しかし、まともにエリカテーナを妻として扱おうとしないヴァルターには腹が立つし、庶民のくせに、孤児だったくせに──と、多少は思ってしまうのだ。
その度、自分は差別意識の持ち主だったのかと自己嫌悪に陥るのだから、厄介なものである。
「ところで、エリカテーナ。君は僕の、なに? もしかして妹? 妹だったら嫌だな、だって君は僕の好みのタイプだから」
「は……?」
「一目惚れっていうのかな。君はとても可愛くて綺麗で、君の顔を見ていると胸の奥が苦しくなるんだ」
「はぁ……?」
何をいっているのか、この人は──と、エリカテーナは彼を射殺すほどの視線で睨みそうになり、咳ばらいをして気を取り直した。
相手は怪我人である。おそらくは一時的に混乱しているのだろう。
そんな相手に怒っても仕方ない。
「私は、あなたの妻です」
「ほ、本当に?」
「妻です。結婚して二年になります」
「君は僕の、奥さん……! そうか、僕はとても幸せな男だったんだね。君のような可憐な人を奥さんにできるなんて!」
ベッドに置いてある枕で、ヴァルターの頭をもう一度叩いたら、彼は正気に戻るのだろうか。
エリカテーナはそんなことを考えながら、曖昧に微笑み、頷いた。
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