序章
馬の皮で作られた頑丈なトランクに、エリカテーナは丁寧に荷物を詰めている。
几帳面に畳んだ衣服、伯爵家から持参してきたほんの僅かな貴金属を売って作った金貨、日常生活を送るための細々としたもの。
それらをぎちぎちに詰め込んだトランクをなんとか閉めて、ふぅと、息をつく。
使用人たちもまだ目覚めていない早朝。窓の外はまだ薄暗い。朝日がのぼると窓辺から見える金木犀が金色に輝く景色を、エリカテーナは気に入っていた。
今日はそれを見ることができない。誰かに引き止められる前に、この家を出なくては。
エリカテーナの署名だけしてある離縁状を持ち、自室を出てヴァルターの執務室に向かう。
足音を立てないように静かに慎重に廊下を進んでいく。
執務室まであと少しといったところで、どういうわけかこちらに向かい慌てたように駆けてくる足音が響いた。
「エリカテーナ様! なぜこんなところに!?」
「い、いえ、その、少し早く目覚めてしまって」
廊下の向こうから現れたセドリックに、エリカテーナは曖昧な返事をした。
手にしていた離縁状を、ささっと背後に隠す。誰にも知られる気はなかった。
知られてしまえば、きっと引き止められるだろう。離縁状をヴァルターの執務机に置いて家を出る。それが、エリカテーナにできる最善だと考えていた。
円満で、誰も傷つけない、一番よい方法だと。
だから、離縁状を所持していることを、セドリックに知られるわけにはいかない。
セドリックはヴァルターの右腕だ。彼の得た情報は右から左へヴァルターに流れる。
ヘンドリクセンの忠実なる僕──などと呼ばれている男である。
いつも感情の温度が感じられない冷静な表情を、彼は珍しく歪めていた。
きっちり整えられている黒髪のオールバックが乱れ、眼鏡さえかけていない。寝起きそのままで部屋から飛び出してきたような姿で、エリカテーナの前に立っている。
「落ち着いて、聞いてください。ヴァルター様が事故にあわれました」
「事故……」
「はい。馬車の事故です。車輪が石畳の溝にはまり、横転したようです」
「そうですか……それで、ヴァルター様は……?」
どうしてこんな日に、事故なんて。
エリカテーナは歯噛みする思いで、セドリックの報告を聞く。
ヴァルターの乗っていた馬車が横転し、彼は王都の診療所に運ばれた。早馬で伝令が来て、セドリックは慌てて対応したのだという。
ヴァルターには家族がエリカテーナしかいない。連絡が来るのは当然だ。
だがよりにもよって、家を出ようと決意した日に事故なんて──と、エリカテーナはすぐに来て欲しいというセドリックの背を追いかけながら、離縁状を普段使い用のドレスの胸元に無造作に捻じ込んだ。
セドリックが手配した馬車に乗り、診療所に向かう。
店の開店準備をする人、朝食用に売るために魚を揚げはじめる人など、徐々に活気づきはじめている街を眺めながら、エリカテーナは深い溜息をついた。
没落しかけたヴァルモン伯爵家を救うため、ヴァルター・ヘンドリクセンという貿易商の男に嫁いでから二年。生活に不自由はなかったものの、愛はなかった。
彼は嫁いだその日に、エリカテーナに『爵位を得たいために結婚した。それだけだ』と告げたのだ。
ヴァルモン伯爵家は没落しかけているとはいえ名門である。
父の口添えで、ヴァルターは男爵位を手に入れた。その代わり、ヴァルターはヴァルモン家の支援をした。エリカテーナは、そのための駒にしか過ぎなかったのだ。
初夜は行わず、白い結婚を続けて二年。薄々感じていたが、ヴァルターには家の外に幾人かの愛人がいた。
それは商売上の関係だと、エリカテーナは自分に言い聞かせ続けていた。
けれど半月前に、手紙が届いた。
『家から出ていってください。あなたがいるせいで、ヴァルター様は私と結婚することができません。ヴァルター様は私を愛しているのです』
無記名で届けられた手紙を読んで、エリカテーナの心は日に日に冷たく冷えていった。
同時に馬鹿馬鹿しくも思ったのだ。
いつまで、女としても人としても顧みられないような結婚を続けていくのか、と。
エリカテーナはヴァルターを愛していない。愛そうと思ったこともあったが、ほとんど顔を見せず言葉も交わさない男を愛するなんてとても無理な話だ。
父のため、家のためにヴァルターの妻でいる必要があることは理解している。
だがもう十分だろう。十八歳で嫁ぎ、二年間もひとりきりで耐えたのだ。
エリカテーナは離縁の手紙に『ヴァルター様は愛する人と幸せになってください』と書いた。
そして『二度と皆の前には顔を出しません、私は死んだと思ってください』とも。
ヴァルターは嬉々として、離縁状を聖殿に届けるだろう。
貴族の婚姻も離縁も、法王の管轄である聖殿が管理することになっている。
互いの了承があれば、成り上がりの男爵程度の身分ならばさほど問題なく受け入れられるはずだ。
エリカテーナは家を去り、どこか遠い場所で自由に暮らす──はずだったのに。
胸に膨らんでいた期待が、するすると縮んでいく。
それでも、ヴァルターのことは心配だった。大きな怪我がないといいなと思いながら、診療所の前で馬車から降りる。
セドリックと共に病室の扉をあけると、ヴァルターが不思議そうにエリカテーナを見た。
そして──。
「なんて、可愛い人なのだろう」
と、子供じみた笑顔を浮かべて言ったのだった。
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