ヴァルターは弱みをみせない
エリカテーナは頭一つ分以上高い位置にあるセドリックの顔を、訝しげにじっと見つめる。
彼は視線を逸らしながら頬を染め「実にいい……」と、小さな声で呟いた。
なんだこいつ……ではなく、なにかしらこの人、と思いながら「セドリック、報告と本日の予定の確認をなさい」と、彼から顔を背けて執務室に向かった。
セドリックは従順にエリカテーナの後をついてくる。
その姿を見た使用人たちや、いつものようにエリカテーナの傍に従っているルネアが「まぁ」と、嬉しそうな表情をする。
ヴァルターの現状を知っているので、セドリックとエリカテーナの関係が良好になったことで、安心感を得られたのだろう。これで家令と夫人が仲違いしていたら、皆を不安にさせるばかりである。
頭を押さえつけてでもセドリックを従わせようと思っていたが、そこまでしなくても大丈夫そうだ。
セドリックにも嫌われている自覚があったエリカテーナだが、今まで何も言わな過ぎた自分も悪いのかもしれないと廊下を歩きながら思う。
エリカテーナは母に受けた教育通り貴族の価値観で生きてきたが、セドリックやヴァルターにとってそれはあまり褒められたものではなかったのかもしれない。
腹を割って話したことがないので、相手のことが全て理解できるというわけではないけれど。
「セドリック、今まで私はできる限りあなたたちの邪魔にならないように過ごしてきたけれど」
「この二年の話ですか?」
「ええ」
「私は奥様と関わろうとしませんでした。もうしわけなく思っています」
「それは私も同じよ。ヴァルター様に拒絶されて、意固地になっていたわ。できることはなにかあったはずなのに、なにもしなかった。あなたにの目には私が、愚かな貴族令嬢のように映ったでしょうね」
「い、いい、いえ、そんなことは」
「いいのよ。愚かなふりをするのは、女としての処世術なの。夫の浮気に気づかず、嫌われていることも見ないふりをして、刺繍をしたり観劇に出かけたり、社交の場に出かけたり。私もそれが正しいことだと思っているし、今でも間違っていないと思っているわ。でも、今はそうも言っていられない。だから、あなたはしばらくの間私に従いなさい」
「もちろんです奥様」
やや食い気味に返事をされて、エリカテーナはびくりと震えた。
セドリックとは、誰かに従うのが好きな人なのかもしれない。
だからヴァルターが記憶を失いあれほど動揺していたのだ。一番上に立ちたくない人間というのは確かにいる。エリカテーナも積極的に上に立ちたいとは思わない。だからセドリックの気持ちは少しは理解できる。
エリカテーナとセドリックの話を聞いていたルネアが「おいたわしい、エリカテーナ様」と、涙ぐむ。
彼女や侍女たちとは仲よくしていた。エリカテーナの立場に心を痛めてくれていた。その気持ちはとてもありがたいものだった。
エリカテーナが離縁を決意するまでの二年間、なんとかこの家で暮らしていられたのは彼女たちのおかげだ。
「大切な話をするのですよね、私は同行しないほうがよいでしょうか」
「一緒にいてくれる、ルネア。私はどうにも忘れっぽいから、助けてくれると嬉しいわ」
「はい!」
ルネアを連れて執務室に入る。対面式のソファに座ると、侍女たちがすぐに紅茶を用意してくれる。
朝からずっと動いていたエリカテーナは、紅茶を飲んで一息ついた。
ルネアが傍に控えている。セドリックは予定が書かれた手帳を持ってきた。
エリカテーナは彼に、正面のソファに座るように促す。
「セドリック、ずっと働きづめだったでしょう。朝食を用意させたわ。食べなさい」
「いえ、しかし」
「私がいいといっているのだから、遠慮する必要はないわ」
「ありがとうございます、奥様」
彼が用意された軽食を口にしている間、エリカテーナは手帳を見せてもらう。
そこにはぎっしりと、今週の予定が書かれている。会議、打ち合わせ、確認、視察。
ヴァルターはいつ寝ていたのだろうというぐらいの、予定の詰まりかただ。
「ここまで大きな商会なのだから、ある程度は部下に任せたりはしないのかしら」
「ヴァルター様は他者を信用していないのです。自分の目で見て確認することが多く、それ故多忙でした」
「ヴァルター様が直々に顔をだす必要がなかったものについては、全て予定をキャンセルして、部下の判断に委ねなさい。その上で不具合がでたとしたら、私が責任を取るわ。ヴァルター様の判断が必要なものいついては私が代わりに判断します。あなたの助言も必要よ、セドリック」
「承知いたしました、奥様」
「とりあえず、先にやっておくべきはヴァルター様の浮気相手についての確認ね。この状況で、家に怒鳴りこまれでもしたら困るもの」
サーモンクリームのキッシュを食べ終わったセドリックが、ハンカチで口元をふいている。
エリカテーナは彼に手帳を返した。
それから、若干緊張しながら、セドリックの返答を待つ。
五十人ぐらいいたらどうしよう、という緊張だ。何人いても驚かないが、あまりに多いと処理が大変すぎる。
「継続した関係を持たれている方、という認識でよろしいでしょうか」
「ええ」
「でしたら……」
エリカテーナは唾を飲み込んだ。ルネアからも緊張した空気が漂ってくる。
「いらっしゃいません」
「いない?」
「はい。いらっしゃいません」
エリカテーナは、目をぱちぱちさせる。
腕を組み、首を傾げて──じいっとセドリックを睨んだ。
「私に嘘を?」
「と、とんでもない! 本当にいらっしゃらないのです。ヴァルター様は特定の誰かと懇意にするようなことはしません。人を信用していないというのは、男も女も信用していない、という意味です。人の噂や情報を集めるために女性と過ごすことはありますが、一夜限りのこと。それに体の関係も持ちません」
「それこそ嘘だわ」
「本当ですよ! エリカテーナ様、女性と寝るというのは……いえ、ごほん、なんでもないです」
「あなた、私をなにも知らない無知な生娘とでも思っているのでしょう。私は嫁ぐために男と交わる教育も受けているわよ。座学だけれど」
「げほ……っ」
セドリックが盛大に咽る。ルネアが彼に紅茶をさしだし、背をさする。
彼は涙目になりながら「ありがとう、ルネア」と礼を言った。
「奥様とこんな話をするなんて……なんて罪深いのか……」
「罪深くはないわ、大切なことよ。ヴァルター様は女好きなのでしょう?」
「いいえ、そんなことはありません。女も男も嫌いですよ、あの方は。それでも必要があれば、愛を囁くし、優しい言葉もかけます。ですが、エリカテーナ様が見ていたヴァルター様が本来のヴァルター様です」
「あの冷たくて不愛想な人が?」
「家の中では自分を演じる必要はありませんから。エリカテーナ様に対しては、必要以上に不愛想になっていたようですが」
「私が嫌いだからね」
「そ、それは、私にはわかりかねます。ともかく、ヴァルター様は相手に弱みを見せるのも、弱点を掴ませるのも、極力しないように慎重に生きています。女性を抱けばそれは相手に対する弱みになるでしょう。子でもできようものなら、面倒なことになる。ですから、身体的な接触はしていません」
嘘だ──と、思う。
けれど、セドリックが言うのだから、本当なのかもしれない。
だからといって、では今までの態度を許せるのかと言えば、そう簡単なものでもないけれど。




