エリカテーナは多忙である
ヴァルターの素行については、今は置いておこう。
どの道彼は記憶を失くしているのだから、彼がどんな気持ちで何をしていたかなど推測することしかできない。
彼には彼の、エリカテーナの知らない二十八年間の人生がある。
今までヴァルターとは、エリカテーナにとって一緒に暮らしている他人だった。
彼の部屋にあれほどの本があることも、手帳に予定がびっしり書いてあることも、女性と交流して情報収集していたことも知らなかった。
どうせ港ごとに女がいるのだ──などと想像を膨らませて拗ねていたけれど、そんなことは本当はなかったのかもしれない。
「もちろん、だからといって奥様を放って女性と過ごすのがよいことだと私も思っているわけではありませんよ」
「セドリック様は、ヴァルター様を咎めなかったでしょう?」
ここぞとばかりにルネアがちくちくと言う。
ヘンドリクセン家には、今までハウスメイドはいるが侍女はいなかった。
エリカテーナの侍女たちは、エリカテーナが嫁ぐことになり用意されたヘンドリクセン家においては新参の者たちだ。
だから同じく新参者のエリカテーナに余計に親切にしてくれるのだろう。
ヘンドリクセン家が使用人の募集をかけると、いつも大量の応募があるそうだ。
その中でもヘンドリクセン家が提示した条件は夫がいること、もしくは寡婦であること。
ルネアは『もしかしたら、家中での女性問題を避けたかったのかもしれませんね』と言っていた。
それにしては外で浮気をするのだから、なんの意味があるのかとエリカテーナは思っていたが、浮気が浮気ではなかったとしたら、ヴァルターとは本当に恋愛的な意味での女性を必要としていなかったのかもしれない。
ルネアに責められたセドリックは、困り顔で「ヴァルター様に意見なんてできませんよ」と、小さな声で言う。冷静沈着に見える男は、もしかしたらかなり気が弱いのだろうか。
いや、それだけヴァルターが暴君だったというだけなのだろう。
彼らは仲良しというよりは、共に育ったにしては徹底して上司と部下の関係だった。
「では、慰謝料もしくは手切れ金が必要な女性は、セリーヌ嬢だけということですね」
「はい。潰れたサワガニのお嬢さんだけですね」
「潰れた、かに」
ルネアが不思議そうにつぶやく。ちょうどセドリックの前に置かれていたカニの爪フライを指さす。
セドリックはその皿を「食べます?」と、ルネアにさしだした。ルネアが首を振るので、今度はエリカテーナにさしだしてくる。
エリカテーナはカニの爪フライを摘まんで食べた。
セリーヌの断末魔が頭の中で響いた気がした。いや、考えすぎだ。カニとサワガニはちょっと違う。
「慰謝料といっても、恋人関係ではありません。こちらはセリーヌ嬢から言質をとっています。共に過ごしても朝には帰っていた。愛を囁いたが、体の関係はなかった。奥様と別れることが難しく、セリーヌを妻にしたいができない──と、ヴァルター様は結婚詐欺師のようなことを言っていたようですね」
「確かに結婚詐欺師ね」
「結婚詐欺師ですね」
肉体関係があろうとなかろうと、ろくでなしであることは変わりない。
女の敵──だが、理由がなくそんなことはしないだろう。
結婚詐欺は金を相手から巻き上げるためにするが、ヴァルターには無尽蔵に金があるのだから。
「どうしてそのようなことをしたのだと思う?」
「私にはわかりかねますが、おそらくは、デュアルバ商会になにか問題がおこったか、ジャン・デュアルバに不穏な動きでもあったか……」
「ジャン・デュアルバとは、セリーヌの父親のことね」
「よくご存じで」
「織物を売っているでしょう。社交界のドレスの色やデザインについても、デュアルバ商会が流行の一端を担っているわ。流石に、セリーヌについてまでは知らなかったけれど」
セリーヌは、ヴァルターの言葉を真に受けたのだろう。
だからエリカテーナに、ヴァルターと別れろ、という手紙を送ってきたのだ。
でも、そこには本当に感情がなかったのだろうか。
ヴァルターは今回は本気だった、という可能性もある。どの道、考えてもわからない。
彼の元の人格は、記憶と共にどこかに消えてしまった。
「セリーヌ嬢については、馬車の事故の慰謝料のみで問題ないかと思います」
「事故についてはどう? 被害は?」
「幸いにして早朝でしたので、巻き込まれた者はいませんでした。道の破損もなく、壊れた馬車の回収と修理だけで済みそうです。こちらは私が対応します」
「デュアルバ商会に、早々に謝罪と慰謝料を渡しに行くわ。こちらは私が行きましょう。それから、私がするべきことを教えなさい、セドリック」
「はい、奥様!」
いい返事である。
セドリックは手帳を確認して、いくつかの予定にマル印をつけた。
「奥様のおっしゃるとおり、ある程度はレオンや他の者たちに任せます。奥様には決済の確認や、他国の取引先にあてた手紙の返事、全体会議への出席を。午後からデュアルバ商会に私と共に行き、慰謝料を渡しましょう」
「わかったわ。ルネア、ヴァルター様は今、よく寝ているわ。もし起きたら、きっと色々不安でしょうから、身の回りのお世話を頼んでもいいかしら」
「承知いたしました。ですが、奥様以外の人間を怖がっていらっしゃるようでしたよ」
「できるだけ早く傍にいくわ」
ルネアは礼をしてさがっていく。
エリカテーナはセドリックと共に執務室に残り、普段はヴァルターの座っている大きな執務机の椅子に座り、彼の指示通りに書類に目を通していく。
眩暈がするほどの大きな額の決済を、数字の計算間違いがないかを確認しながら済ませていく。
他国からの手紙について、早急に返事が必要なもののみを、ヴァルターの体調が優れないことを理由にして仮の代表として書いていく。
夏の間に働きすぎたことによる疲労からくる衰弱と、書いておいた。一か月ほどの休養で元気になるだろう、とも。
「エリカテーナ様は、多国語の文字もお書きになられるのですか?」
「教養の一貫でね。母は私を、王子殿下の妻、もしくは公爵閣下の妻にするという夢を抱いていたのよ」
「私には想像がつかない世界ですね」
「女の価値は、いかに身分が高い男に嫁ぐか、という世界で生きているのよ。全ては家のためね」
最後の手紙に蜜ろうで封をすると、全体会議の時間が差し迫っていた。
ヴァルターの部屋をのぞき、彼が眠っているのを確認してからエリカテーナは身支度を整えて家を出る。
ルアナや侍女たちが、商会の女主人として立派な服装を、ということで、華美ではないが質のよいドレスを着せてくれる。セドリックと共に馬車に乗り、港にあるヘンドリクセン商会に向かう。
すぐにレオンが出迎えてくれる。
彼は恭しくエリカテーナに礼をする。全体会議に集まるのはざっと十人ほど。
貿易船の船長や、交渉役の者、貿易品の流通担当、倉庫の在庫管理人等々。
会議室に集まった皆の前でエリカテーナはヴァルターの事情を説明する。
働き過ぎによる疲れのために、一か月ほどの休養をとる、その間はエリカテーナが変わりに働くことを伝えると、皆はそれぞれ不審そうな顔をしていた。
ヴァルターが彼以外に商会について任せるとは思っていないようだ。
しかし、セドリックがエリカテーナを支持している姿を見て、ヴァルターからの直々の指示であることを徐々に信用してくれたようだった。




