第9話 構ってやろうか
「来ないのか」
喜怒哀楽というものがすっかり隠れてしまったような淡々とした顔で、久住は私に問い掛けた。
青白いと言ってもおかしくないほど真っ白な肌は、日光を浴びることなど滅多にないと言わんばかりに滑らかだった。血管がわずかに浮く細い腕には、白いビニール袋が掛けられている。
「来ないって……」
「店に。鈴子がいれば悟も――ああ、あのとき最後に来た奴。俺の弟だが……割と大人しくしてるぞ」
道端で立ち止まる私と久住を照らしているのは、街灯と月明かりだけだった。
23時を過ぎた帰り道にひょっこり現れたこの人は、まるで吸血鬼みたいに月明かりが似合っている。
バイトの時間帯を変えたのは1週間前だった。週に2回、夕方から夜まで入れるよう融通を利かせてもらった。
月の下旬だったからこそ通った希望で、月初めだったら難しかったと思う。
時間帯を変えた理由は、なんとなく環境を少し変えてみたかったからだ。
「そのうち、行きます」
行かないと言えば理由を聞かれそうで、曖昧な建前を口にする。
久住は目を細め、ビニール袋をかさりと鳴らした。
「安形は合わなかったか」
その一言で、この人が事情を知っていることに今さら気づく。
気まずくなって目を逸らすと、小さなため息が聞こえた。
「……顔だな」
「顔?」
「その顔。それがあるから、羽柴も安形も気になるんだろう」
「……」
どういう意味だろう。
沈黙した私を見て、久住が歩き出す。近くの建物を囲む塀へ背中を預け、ゆっくりと振り返った。
「2代目ってわけじゃないが、まぁ近い部分はあるな。似たような女を知ってる。諦めが早くて、期待を持たない。1人でいようとしてた女」
そう言ってビニール袋から取り出したのは、小さな紙パックの牛乳だった。
突然投げられ、反射的に受け取る。
「やるよ。――顔には出さない、って意固地になってる顔だ。でも、アンタの方が素直そうだな」
「……何の話ですか?」
眉をひそめた私に、久住は片手を上げた。そのままくるりと背中を向け、答えずに帰ろうとする。
「誰の話なんですか」
問い掛けても、久住は振り向かなかった。
「――寂しくなったら、店に来い。アンタなら、俺でも相手くらいできそうだ」
誰と比べているのかは分からない。
だけど、その物言いが無性に腹立たしかった。
「私は……!」
裏返った声に、久住が振り返る。急に声を張ったせいか、喉が驚いたようにかすれた。
「私は、その人じゃない!」
どうしてそんな言葉が飛び出したのか、自分でもよく分からない。
ただ悔しかった。
誰かと比べられたことで、まるで私自身を否定されたような気がした。
咄嗟に出た言葉を聞き、久住は口角を上げる。
「ああ、そうだな。アンタとソイツは違うだろう。――アンタは、構ってほしいだけで面倒なものは持ってない」
図星だった。
構ってほしいだけ。
的を射た言葉が、何より真っ直ぐ胸へ突き刺さる。
「……私は」
「だから、引き受けてやれる」
しんと静まり返った道端。街灯と月明かりだけが辺りを照らしている。
「構ってやろうか。四六時中」
青白く見えるほど真っ白な顔で、今にも倒れてしまいそうな久住は、そんな外見とは裏腹にしっかりと地に足をつけていた。
自分のペースを乱されたくない。だけど誰かと触れ合っていたい。
子供みたいに誰かを求める私へ、久住が手を差し出す。
「過去は変えられるものじゃない。だから俺は、過去に引きずられた奴を相手にはしない。――ただ構ってやるだけなら、俺でもできるだろう?」
能面のように整った真っ白な顔が、私を見つめて待っている。
「私は、誰でもいいって思ってる。あなたじゃなくても」
「だから何だ。誰でもいいなら、俺でも構わないってことじゃないのか」
「それは、そうだけど……」
「まぁ、好きにすればいい。俺はアンタがどうしようと気にならない。知り合いだから声を掛けただけだからな」
何とも思っていないような表情で、久住は続ける。
「気まぐれだ。そう言える程度には、アンタを重要視していない。とどのつまり――」
――俺も相手がアンタじゃなくてもいいってことだな。
かさりと揺れたビニール袋が、いやに目について離れなかった。
結局、その言葉に乗ったのは私の方だった。
あの喫茶店まで迷いながらもたどり着いたとき、ガラス越しに私を見つけた久住は、まるで来ると知っていたみたいに、わずかに笑った。
悔しかった。誰かと比べられたことが。
寂しかった。誰かと一緒にいたかった。
嬉しかった。――そばにいてくれると、久住はそう言ったから。
それから、店の営業が終わり、久住以外がいなくなると連絡が来るようになった。
久住は何も言わなかったし、私も聞こうとはしなかった。けれど、先輩にもハシバミツルにも会いたくないという気持ちは、見透かされているような気がした。
いや、きっと久住は気づいている。
だから、メールを送ってくる。
『空いたぞ』
それだけの短いメッセージを。
休みの日も、夜勤がない日も、私は久住が営む喫茶店へ通った。
何をするわけでもない。
久住は私の話を聞き、私は久住の話を聞く。
『構ってやろうか』という言葉の通り、久住はただの聞き役になるのではなく、自分のことも話してくれた。
弟の話。友人の話。喫茶店へ来る客の話。
寡黙に見えた久住は、意外と普通に喋る。ただ、声はいつも平坦で、感情の起伏がなかなか見えない。
低い声で淡々と話す久住は、うるさくなくて私には楽だった。
「多分、恋人同士だったんだろう。別れ話がこじれたらしい。女が男に珈琲を掛けて出ていったな」
「リアルドラマ……修羅場かぁ。実際にそんな場面、見たことないかも」
「見ないに限る。後始末が大変だ」
「それは久住が店の人だから。遠目から見るだけなら、大変でも何でもない」
久住の淹れたミルクティーを飲みながら、カウンターへ上半身を預ける。
だらしなく突っ伏した私の頭を、久住が軽く撫でた。
「疲れたのか」
「……うん、少し」
「帰るか? 帰るなら送っていく」
意外と久住は、私に優しい。
甘やかすような言葉をさらりと口にする彼に、ふと罪悪感が湧く。
けれど決まって、そんなときは――。
「女を車に乗せるのは久しぶりだな」
遠回しに、久住は私が『特別』ではないことを思い出させる。
それが私のためなのか、それとも恋愛にならないようにする牽制なのか、いまひとつ掴めなかった。
「どれくらい久しぶりなの」
「誰を乗せたか全く覚えていないくらいには久しぶりだ」
「そう、なんだ」
いつ、とは聞かない。
明確な時期を口にしないのも、久住なりの気遣いなのかもしれない。
部屋へ帰ると寂しくなる。
久住と過ごす時間が増えれば増えるほど、1人になったときがつらい。
帰宅したあと、ロータリーへ行こうかと思うくらいに。
「ロータリー、行こうかなぁ」
ぼそりと呟いた私を、久住は呆れた目で見つめた。
少しの沈黙のあと、ゆっくり唇が開く。
「面倒な女だって自覚があるから、どうしようもないな」
続いて緩んだ口元は、どこか楽しそうでもあった。
「足りないか」
問われた言葉に頷けば、久住は何をするんだろう。
そんな好奇心が湧き、浅く頷いて見返した。
「構い方も構う頻度も手探りで、期待に添えるかは分からないが――」
久住はカウンター越しに、私へ不意に口づけた。
予想していなかった接触に心臓が跳ねる。けれど距離が離れると、思ったよりも早く終わってしまったことが惜しく感じられた。
「……終わり?」
駄々をこねる子供みたいに尋ねる。
久住は少しだけ私へ近づき、今度は頬へ軽く口づけた。
「後でな」
エプロンを外しながら背中を向ける久住を見て、胸の奥が少しだけ軽くなった。
「後でって、なに?」
「部屋。俺の家に連れていく。まだ帰りたくないんだろう」
「……うん、まぁ」
「飯は?」
「食べてない」
言われてみれば、お腹が空いている。
食べていないと答えた私に、久住はふっと小さく笑った。
――ああ、デジャビュ。
そんな気がして記憶を探ってみたけれど、結局、誰の顔も浮かんでこなかった。




