第10話 泡銭
久住の住むマンションは、表通りから少し外れた場所にあった。
私が足を踏み入れたことのない一帯へ、久住はためらいもなくハンドルを切る。整備されたばかりのなだらかな道を、慣れた様子でクラウンが進んでいく。
グレードはおそらく高い。
ロータリーで多少身につけた程度の観察眼で、そう判断した。
VIPカーの並ぶロータリーには、一体いつの時代の車だと言いたくなるような古い型もある。けれど久住のクラウンは、新しいとも古いとも言い切れない、少し年季の入った雰囲気を醸し出していた。
駐車スペースへ車を停め、久住が運転席を降りる。
無駄のない動作でさっさと外へ出てしまった姿に、置いていかれたような気がした。行き場をなくした視線が、膝へ落ちる。
ゆっくりシートベルトを外して助手席から降りると、久住は動かずに立っていた。どうやら私を待っていたらしい。
「久住、お金持ちなんだね」
口にした言葉には、わずかな皮肉が混じっていた。
自分でもそれに気づき、すぐに口をつぐむ。久住は何も言わず、私の隣まで歩いてきた。
裕福な家庭を羨んで、妬んだ母親と同じにはなりたくない。
ただ、きっと。
もし家が裕福で、本当にお金持ちと呼べるほどだったなら、母親はもう少しましな性格だったのだろうかとも思う。
「泡銭は身につかないとは言うが……なかなか減らないな」
「泡銭?」
聞き返しても、久住は答えなかった。
泡銭。
苦労せずに手に入れた金を、そう呼ぶはずだ。
久住は、苦労せずに金を得たということなんだろうか。
真意は分からなかったし、そこへ踏み込むのはためらわれた。
けれどマンションへ足を踏み入れた瞬間、そんな疑問は頭からきれいに消えた。
私の住むアパートとは、何もかもが違う。
廊下は隅々まで磨かれたように光り、エントランスは広く、天井も高い。高級レストランにでも来た気分になるのは、受付付近に人が常駐しているからだろうか。
終始ぽかんと口を開けている私へ、久住は何も言わなかった。
無言のまま部屋まで進み、中へ入ってからも特に反応を示さない。
「久住……」
入っていいのか不安になって声を掛けると、久住は不思議そうに振り返った。
「何で入らないんだ?」
「……お邪魔します」
「ああ」
靴を脱ぎ、ライトグレーの床へ足を踏み入れる。
深いブラウンのドアを開けた久住は、さっさと奥へ入ってしまった。慌てて後に続き、照明がついた瞬間、私はまたしても唖然とした。
リビングが広い。
目を丸くして黙っていると、上着を脱いだ久住がじっと私を見る。
「どうかしたか?」
「部屋、広いね……」
「リビングとダイニングが一緒になってるだけだろう。買い物に行ってないから食材がほとんどないな。レトルトでもいいか」
「あ、私がする」
「……自炊してるのか?」
「うん。レトルトって何がある?」
キッチンへ近づき、思わず感心する。
IH。
ガスコンロではなく、IHクッキングヒーターだ。雑誌や量販店で見たことはあったけれど、実際に使っている家へ来たのは初めてだった。
シンクへ背中を向け、キッチンワゴンの一番下を開けた久住の隣へしゃがみ込む。
「結構、中身は豊富だな。食べたいのがあるか? 冷凍室にもいろいろある」
覗き込んだことを後悔するくらいには、よく分からないものばかりが入っていた。
英語は読めないし、缶詰はやたら高級そうだし、私が知っているレトルト食品とは違う。
「……冷凍って何があるの? 中見てもいい?」
「ああ。着替えてくる」
「うん、分かった」
料理ができないわけじゃない。
材料さえあれば、適当に作ることくらい簡単だと思っていた。
けれど目の前にあるのは、知らない外国の食品ばかり。日本語なんてほとんど書かれていない。
冷凍室を開け、ピザを見つけた瞬間、私は敗北を認めてそれを手に取った。
ピザでいいよね。
むしろ、もうピザくらいしかできない。
焼くだけだし。焼けば食べられる。
着替えて戻ってきた久住は、オーブンを一瞥して私へ小さく笑った。
「……野菜室もパレードみたいになってるよ」
ニンジンとかジャガイモとか、野菜ってそういうものが定番じゃないんだろうか。
赤くて小さいトマトみたいなものは妙に硬いし、紫色なのにナスでもない。
誰が色とりどりのパレードにしろなんて言ったんだろう。
「そりゃあ楽しい野菜室だな。切って焼けば基本的に何でも食えるぞ」
「慰めてくれてるの?」
「いや。味は気にしないって言ってる」
「分かった。馬鹿にしてるんだ」
即座に言い返した私に、久住の顔がわずかに引きつった。
数秒、何と返すか迷ったらしい久住が口にしたのは、ひどく直球な一言だった。
「……わがままな女だな」
「知ってる」
「だからなおさらタチが悪い。明日は?」
「休み。言ってなかったっけ」
「ああ、聞いてない。泊まるか?」
何気なく滑り出した言葉に、身体が固まった。
久住はたぶん、それにも気づいている。
「――何もしないで」
「言ってることが矛盾してる。自分でも気づいてるだろう」
「うん。でも、久住とは何か違う」
「そんなわがままが許されるのは、多分俺だけだろうな」
落胆した様子もなく、かといって目立った感情も見せない。
Vネックのシャツから覗く肌は、相変わらず真っ白だった。
久住はソファーへ腰を下ろす。オーブンが鳴るまで暇を持て余した私は、なんとなくそのそばへ近づいた。
久住は何も言わず、隣へ座るよう場所を空ける。
抱き締めて。
そう言えば、久住はきっと応えてくれる。
分かっているからこそ口にしたくなくて、私はわざと背中を向けたまま、久住の肩へもたれた。




