第11話 待っていた人
久住と一緒にいる間は、時間の流れがゆっくりになる。
もちろん、そう感じるだけなのだろう。それでも久住のそばには、私が自然と落ち着ける空気があった。
1日、また1日と、久住と過ごす時間が心地よくなっていく。そんな中、忘れかけていた出会いと、不意打ちのように再会した。
できることなら会いたくなかったリュウと、営業終了後のカフェの前でばったり鉢合わせたのだ。
「お前……」
思い出すように眉をひそめたリュウに、苦笑するしかない。
会ったのはもう2週間も前のことで、忘れていてもおかしくない。他人のふりでやり過ごそうと軽く会釈し、そのまま横を通り過ぎる。
久住に会いに来たのなら、きっと店に入るはずだ。私がいれば邪魔になるし、久住と知り合いになっていると気づかれるのも、なんとなく気が引けた。
「待て」
横切った私を呼び止め、リュウは早足で近づいてきた。
持っていた鞄の持ち手をぎゅっと握り、恐る恐る顔を上げる。
ああ、嫌だな。話したくない。
きっと私は勝手にリュウと自分を比べ、彼の面倒見のよさとは真逆の、自分本位な考えを恥じていた。
「お前、充の……」
「すみません、何のお話ですか?」
訳が分からないという顔をすると、リュウは虚を突かれたのか、目を丸くして無防備な顔になった。
けれど次第に細められていく瞳が、私を思い出したのだとはっきり示していた。
「ふざけんじゃねぇよ。お前、……あー、名前……確か……」
「ナミ」
名前を告げたのは、私じゃない。
低く、穏やかな声。
「あ?」
リュウが剣呑な雰囲気を漂わせながら、私の後ろを睨み付ける。
「やっと見つけた」
振り返ることができないのは、その声に聞き覚えがあったからだ。
強張った身体をどうにか動かして後ろを見る。
無害そうな穏やかな顔。ワックスでふわりと遊ばせた茶色の髪。ひらひらと手を振ってきたのは――。
「鉄矢……」
柔らかな笑顔なのに、瞳の奥だけが笑っていない男だった。
「……どっかで」
ぼそりと呟いたリュウは、さっきよりも険しい顔になっている。
鉄矢が向けてくる満面の笑みに、足がすくんだ。
「久しぶり、ナミ。連れにいろいろ聞いてから探してたんだ」
「何で……?」
連絡を拒否しているのに、探す意味が分からない。
鉄矢から受けた印象では、追わないタイプだと思っていた。それが間違いだったとは、今でも思えない。
「助けに入ってくれたの、ナミでしょ。おかげで生きてる」
世間話でもするような調子で、鉄矢はけらけらと笑う。
「だからさ、お礼が言いたくて。飯でもなんでも奢るよ?」
「……いい。もうロータリーには行かないから」
「へぇ、なんで?」
心底不思議そうな鉄矢に、歯切れ悪く、それでも誘いを断れるよう嘘をつく。
「彼氏ができたから」
「安形?」
あまりにも早い切り返しに驚きながら、首を横に振った。
安形って……ああ、リュウだ。久住が確か、そう呼んでいた。
「――中に入れ」
どすの利いた一言だった。
リュウが私の腕を引き、短く告げる。
いきなりどうしたのかと視線を向ければ、リュウは鉄矢から目を離さないまま続けた。
「俺の名前、知ってやがる。どうせまともな奴じゃねぇ」
どういう意味なのか、私にはさっぱり分からない。ただ、リュウの様子から、よくないことだというのは感じ取れた。
「酷いなぁ。ただの先輩だって。君らとは学校で会ったことないけどね」
「普通の卒業生なら、後から入ってきた後輩の名前なんか知らねぇだろ」
「いやいや、有名だからね」
「2回同じことを言ったら、大抵それは嘘らしいって話があんだよ」
「気に食わないなぁ……君らって鼻が利くから嫌いなんだ」
鉄矢の笑みが凍り付き、徐々に怒ったような表情へ変わっていく。
笑っていないだけで、こんなにも恐ろしく見える。
私がずっと見ていたのは笑顔ばかりで、怒った顔は見たことがない。だからなのか、妙に嫌な感じがして、思わず1歩後ずさった。
「……あっ」
どうして、このタイミングで思い出してしまったのだろう。
頭が真っ白になり、膝が震え始める。
――久住は2度と現れねぇ。待っても無駄だって、絶対に伝えろよ?
ハシバミツルは、あのとき私にそう言った。
――カナエ君は、売人だ。
――待ち人。もうずっと会ってないけどね。
――泡銭は身につかないとは言うが……なかなか減らないな。
久住。クズミ。くずみ。
ねぇ、久住。
久住は、何?
からん、とカフェの扉が開いた。
私は振り返れなかった。血の気が引いたまま、庇うように立つリュウの服を掴むことしかできない。
「――消えろ」
開口一番、久住が言い放ったのは、そんな冷たい一言だった。
ごくりと息を呑む気配がした。多分、鉄矢だ。
「……違う。探してたのはナミだ。俺はただ待ってただけで、探そうと思ったことはないよ」
慌てた鉄矢の言葉に、久住は何も返さなかった。
しばらくして、遠ざかる足音だけが聞こえた。
その音が完全に消え、鉄矢がいなくなったと分かっても、私はなぜか動けない。
「せいぜい、後悔しろよ」
リュウが吐き捨てる。
久住を責めるその一言が、私の嫌な予感を裏付けた。
「分かってる」
久住は静かに答えた。
頭の中で、警鐘が鳴り響く。
聞いたら駄目だ。
きっと聞いてしまったら、もう元には戻れない。
「一番傷ついたのはタキだ」
「……ああ」
頭上で交わされる会話も、私の耳をすり抜けていった。
肯定しないで、と懇願したところで、久住は頷いてしまう。
自分が大事だ。
自分が一番大切だ。
危険なことから逃げ出して、自分自身を守ってきた。揺らがないのは、それだけだった。
私はいつだって、安全な場所へ逃げ込むことを選んでいる。
今は、どうするべきなのか。
聞かなくても分かっていた。
「……ごめん、久住」
口から出た謝罪は、自分でも驚くほど冷たかった。
「ああ」
淡白な返事に、胸がぎゅっと締め付けられる。
リュウがため息を吐いた。
「なにやってんだ、テメェらは」
私と久住の間に漂う異変を感じ取ったらしい。
面倒臭そうな言い方なのに、その声にはわずかな呆れと心配が混じっていた。
リュウは、私とは違う。
人のために何かをすることが、きっとできる。
リュウの服から手を離した。
久住を見ないまま、逃げるように走り出す。
――構ってやろうか。四六時中。
ふいに思い出したのは、ひんやりとした久住の白い手だった。
私の頭を優しく撫で、そのあと小さく吐息を漏らした。
避けられなかったことに。
私に触れられたことに。
まるで安堵したような、あの小さな吐息だけが、いつまでも耳に残っていた。




