第5話 借りと見返り
ロータリーへ行くことをためらい、1週間が過ぎた夜。
近くのコンビニへ向かう途中、古びた公園の入り口にハシバミツルが立っていた。虫の集まる高い街灯の下、石碑に背中を預けたまま、ゆっくりと私を見る。
「ひっ……」
頼りない光に照らされたハシバミツルの顔には、うっすらと笑みが浮かんでいた。それがひどく不気味に見える。
「こんばんは、『ナミ』ちゃん」
偽名で呼ばれたことに、さらに背筋が凍った。
先輩と付き合っているのなら、私の本名くらい知っていてもおかしくない。それなのに、あえて偽名で呼んでくる。
そもそも私は、先輩にもハシバミツルにも『ナミ』と名乗ったことがない。
「ロータリー張ってたんだけどさぁ、キミがなかなか来ないから」
「……あ、あの」
「探しに来ちゃったんだよねぇ」
1歩、また1歩と近づいてくる。ハシバミツルは嫌な笑みを張り付けたまま、私から視線を外さない。
「何が望み? 1つだけ、聞いてあげる」
じり、と靴底が鳴った。
後ろへ下がった私との距離を、ハシバミツルは笑ったまま詰めてくる。恐ろしい以外の何ものでもなかった。
「望み、なんて」
「――酒田ぁ」
「はい」
ハシバミツルの後ろから現れた男が、素早く私の横を通り過ぎた。前後を塞がれ、逃げ道を失ったことに気づいて膝が震え始める。
「連れて来い」
ハシバミツルはそれだけ言い、公園前の路地に停まっていた車へ向かった。
車から降りてきた別の男が後部座席のドアを開け、ハシバミツルを乗せる。その男は続いて助手席へ乗り込んだ。
暗がりのせいというより、この不可解な状況に耐えきれず、かくんと膝から力が抜ける。
「おっ……と。別に怖がらなくていいよ。何もしないから」
そんな言葉を簡単に信じられるほど、私は馬鹿じゃない。
睨み付けるように男を見ると、酒田と呼ばれた男は薄く苦笑した。
「少しだけ付き合って。りんごさんの知り合いに何かするなんてあり得ない。保証する」
「……りんご?」
「あ、鈴子さんのこと」
私の身体を支えるようにして歩き出した酒田は、暗がりに似つかわしくない朗らかな笑みを浮かべていた。
先輩のあだ名が『りんご』らしいと知った途端、妙に肩の力が抜ける。
一体、何がしたいんだろう。
明らかに危ない状況なのに必死になって逃げないのは、先輩の知り合いだと分かっているからだろうか。
そんな自分を、我ながら滑稽だと思った。
後部座席へ乗り込むと、ハシバミツルは右側のドアに背中を預けたまま、私を射抜くように見た。
「最初は余計なコト言ってんじゃねぇよって思ったけどー、まぁ、最後の話でチャラだしぃ?」
「は……?」
「結果的にはりんちゃんのご機嫌取ってくれたから、見返りに何か聞いてあげる」
「い、いや、大丈夫です。いいです」
「早く言えよ。なんかあんだろ」
何だこいつ。二重人格か……!
急に刺々しくなったハシバミツルから距離を取り、左側のドアへぴったりと身体を寄せた。
「聞いてやるっつってんだよ。借りがあるままじゃ面倒臭ぇし」
気だるそうにため息を吐き、早く言えと言わんばかりに私を睨む。
「……本当に、いいです。望みなんてないし」
「あの男、ガチで彼氏じゃないんだ?」
「違います」
「売人だから付き合うのはオススメしないケド、取り持ってやろっかぁ?」
「いいです! もう、関わらないつもりなので……」
「ふぅん。酷いオンナだよねぇ。売人だからキョーミないって?」
「……」
何が言いたいのか、まるで分からない。
ちらりとハシバミツルを見ると、その目元は三日月を描いていた。
「やめさせるか」
「何を……?」
「クスリ、その他もろもろ。付き合いてぇなら助けてやるよ。フツーの男にすりゃいいんだろ」
鉄矢が普通の男だったら、私は付き合おうと思ったのだろうか。
面倒ごとに関わりたくなくて、連絡を断った。面倒さえなければ、付き合おうと思った?
「――いいです。そんなこと、しなくて」
1度切り捨てた私が、今さら鉄矢と付き合おうなんて無理に決まっている。そもそも、そんなつもりは最初からなかった。
すでに終止符を打った関係なのに、また関わろうとするなんて虫が良すぎる。
「んー……まぁ、いいや。じゃあ、フツーの男あげるから、ソイツがお礼ってコトでいいよねぇ?」
「あの、お礼とかいらないんで!」
「俺さぁ、後から何か言われんのイヤなんだよねぇ」
「言いません、何も」
「そんなの分かんないしぃ? ――槙原ぁ、龍に連絡取って」
「はい!」
ハシバミツルが座席へ片手をつき、唐突に身を寄せてきた。顎へするりと指を伸ばされ、あまりの近さに心臓が大きく跳ねる。
「フツーの男、キミにあげる。だから、これでチャラってコトで」
ほのかに香る香水と近すぎる距離に、胸の鼓動が速くなる。
恐怖だけじゃない気がして、余計に混乱した。
「……あ、好きになるの禁止。俺、カノジョ一筋だから」
反射的に思い浮かんだのは、困ったように笑う先輩の顔だった。




