第4話 先輩と彼氏
「何か飲むー?」
「お茶にする」
先輩が訪れたのは、鉄矢が病院へ連れていかれた日から1週間が過ぎた頃だった。
カウンターに立つ私へ微笑み、先輩とあの男――ハシバミツルがドリンクコーナーへ向かう。
ハシバミツルは先輩の背中を押しながら、一瞬だけ私を振り返った。
凍えるような視線に、ぎくりと身体が強張る。言うつもりなんてないのに、妙に嫌な汗が噴き出した。
「甘いもの食べたいなー……みーくん、プリン食べる?」
「食べるー」
無邪気に笑ったハシバミツルは、さっきとは180度違う甘い顔をしていた。先輩の背後から肩へ顎を乗せる。
甘ったるい雰囲気に胸焼けしそうになり、顔を逸らした。
「暑苦しい」
「あ、ケーキも買お」
「高いからダメ」
「えー……」
却下されたことにハシバミツルは不満そうな声を上げ、先輩は容赦なく追い打ちを掛ける。
「前夜祭とかやんないからね」
「バレてたー。盛大にお祝いしよーよ。誕生日前なんだしぃ」
「祝うのは誕生日当日だけにして」
「……んー、りょーかい」
渋々といった様子で、ハシバミツルは納得した。
先輩強い。先輩すごい。
あの夜の姿を見たあとだからか、先輩がものすごい人に見えてくる。先輩のイメージとは合わない彼氏だと思っていたけれど、こうして会話を聞いてみると案外お似合いだ。
それにしても、誕生日。
明日が誕生日だという先輩へ、なんとなく何かしたくなった。
私が初めてバイトへ入った日、先輩はおにぎりを奢ってくれた。休憩に入る前、レジで精算したおにぎりにメモを貼って、バックヤードへ置いてくれていた。
『焦らなくていいよ』
顔には出さなかったけれど、初日はかなり戸惑っていた。それを見抜いていたのかもしれない。
無愛想で感情が表に出ない私に、店長はため息を吐いた。それでも先輩は困った顔をしながら、丁寧に仕事を教えてくれた。
無言でも心地いい、不思議な人。
影のある笑みは少し暗くて、なぜか私を安心させた。
必要以上に興味を向けず、かといって無視もしない。プライベートなことなんて、1度も話したことがない。
ただ、仕事を教えてくれる姿勢が優しくて、丁寧で、ほっとした。
2人でいる空間を気まずいと思わなかったのは、きっと先輩が私へ必要以上に踏み込んでこなかったからだ。
先輩は私に辞めるとは言わなかった。
だけど、私は今、先輩がいなくても1人で仕事ができるようになっている。
それがすべてだ。
無責任に辞めたりはしない。それだけで、どんな人なのかはよく分かる。
感謝の言葉は言えなかったけれど、もし辞めると聞かされていたとしても、私は頷くだけだっただろう。
年上の人間は、少しだけ苦手だった。無愛想だと言われるたび、笑うのがひどく億劫になる。
「皆見さん、元気にしてた?」
レジに来た先輩は、かごを置いて私へ問い掛ける。
「……はい」
返事をして、商品をハンドスキャナーで読み取っていく。隣に立つハシバミツルが、冷ややかな視線を私へ向けていた。
「――ねぇ、みーくん」
「なぁに?」
「今からちょうど1週間前の夜、どこに行ってたか聞いてもいい?」
肩が跳ねる。
どきりとした私と同じように、ちらりと先輩を見たハシバミツルも、わずかに顔を引きつらせた。
「りんちゃん、もしかして……ここに来た理由ってソレ?」
「なんのこと? 私は1週間前の話をしてるんだけど」
「誰から聞いたの?」
「言うと思う?」
「チッ……酒田か」
「残念でした。違います」
「じゃあ誰?」
「昨日、遊びに出てた知り合いから」
「……」
金額を告げるタイミングを計りながら、精算を続ける。
「――先ぱ」
「ごめんなさい」
「……あ、えっと……」
先に謝ったのはハシバミツルだった。真っ直ぐ私を見て、浅く頭を下げる。
「……いえ」
何と言えばいいのか分からない私に、先輩は微苦笑して財布を出した。
「本当にごめんなさい。何も知らなくて……皆見さんの知り合いなんだよね?」
「えっ……」
「ちゃんとさせるから」
先輩のはっきりとした物言いに戸惑っているのは、私だけじゃなかった。
「りんちゃん……」
「相手の人、怪我の具合は――」
ハシバミツルを無視して、先輩は申し訳なさそうに尋ねてくる。
だけど、鉄矢と私の関係なんて、ほぼ他人と言ってもいい。なんとなく居心地が悪くて、ゆるく首を振った。
「大丈夫です。あの、知り合いってほどではなかったので……」
「え?」
「それに、先輩の彼氏さんにも理由があったみたいですし……」
ちらりとハシバミツルを見ると、意外そうに目を見開かれた。
鉄矢の彼女ではないとは言ったはずだけれど、ハシバミツルはそう思っていなかったのかもしれない。
それより、鉄矢と自分がまた関わることを避けたかった。
掘り返されれば、私は鉄矢ともう1度向き合わなくてはいけなくなる。
「連絡先も、知らないので」
そう言うしかなかった。
先輩は考えるように唇へ指を当て、数秒黙ったあとに顔を上げる。
「――うん、分かった。とりあえず、皆見さんと相手の人はもう関わりがないってことだよね」
そんなはずはない。それでも先輩は、それ以上追及しなかった。
関わりたくないという私の気持ちを察したのか、それなら都合がいいと思ったのかは分からない。先輩の性格から考えると、前者のような気がした。
「ごめんね、迷惑掛けて」
「いえ。私はなにも」
先輩の隣に立つハシバミツルは、先輩を一瞥してそっと目を伏せた。
その表情には、なんとなく覚えがある。
自己嫌悪。
母親が私へ怒鳴ったあと、自分を責めるように目を伏せたことがあった。父親も、私が家を出ることになったとき、同じような顔をしていた。
悪いことをした自覚はある。だけど、自分なりの理由もあるから、素直に謝れない。
ハシバミツルも同じように見えた。
別に、ハシバミツルをどうこう思っているわけじゃない。それでも、先輩がこのまま責め続けるのかと思ったら、なんとなく不憫に思えた。
「――あの」
「うん?」
「相手の人……先輩のことを調べていたみたいで」
「え……?」
「悪いのは向こうです。私も悪くて、私が余計なことを言ったから、先輩に飛び火したようなもので……」
口下手だから、上手く説明できない。
それでも、私なりに考えて出した結論だった。
「だから、先輩は気にしないでください」
鉄矢はきっと、警察沙汰になることを望んでいない。調べられて困る事情があるのは、私にも分かっていた。
できるなら、そっとしておいてほしかった。
もう鉄矢と会わないとしても、関係がなくなったとしても。
あの穏やかな顔を知ってしまった私は、鉄矢が捕まることを、心のどこかで嫌だと思っている。
先輩が責任を感じて動いたとしても、私にはいい結果になると思えなかった。
私は鉄矢に会いたくない。鉄矢も警察には関わりたくないだろう。
ハシバミツルだって同じだろうし、先輩だって彼氏がいなくなるのは嫌なはずだ。
「皆見さんの知り合い――じゃなくて、その相手の人は、もしかしたら生活に支障が出るくらい怪我してるかもしれない。みー……彼は、私には何も話さないから」
じろりとハシバミツルを睨む先輩。
そんな先輩の強気な態度より、その言葉に私はぎょっとした。
生活に支障が出るほど?
あの日のことを思い出し、今さらながら怖くなる。
確かに、容赦はなかった。子供の喧嘩と言えるようなものでもなかった。
「加減をしてるからいいってわけじゃない。相応の責任はあると思う」
先輩は私ではなく、ハシバミツルを見て言った。
「――分かってる。ごめん」
あの夜とは打って変わって、ハシバミツルは情けなく眉尻を下げる。
その姿はまるで別人に見えた。
「関わりたくないんです! もう、あの人とは関わりたくなくて……。あの人も警察に調べられたら困ると思うから、だから……」
たどたどしく明かした内容に、先輩は大きく目を見開いた。
「……そっか。うん、そういうことか……。だから『大丈夫』ってわけね」
目の笑っていない先輩が、ハシバミツルを見上げる。
「すみません……」
なぜか謝った私に、先輩は首を横に振った。気遣うような視線を向けられ、やっぱり言わない方がよかったのかもしれないと思う。
先輩はアドレスと電話番号をレシートへ書き、私に渡した。
何かあったら連絡してほしいと言われたけれど、素直には喜べない。
先輩が警察へ行ったらどうしよう。
それだけが頭に浮かび、動悸は激しくなるばかりだった。先輩とハシバミツルが去ったあとも、なかなか収まらない。
関係ないと切り捨てたのは、自分の方なのに。
それでも鉄矢が捕まることを恐れている自分がいた。
「好きになったわけじゃ、ないのに」
忘れられない鉄矢の優しい眼差しと、ハシバミツルが見せた自己嫌悪の情けない顔。
どちらもやけに記憶に残り、自分でも意味が分からないまま、私は混乱していた。




