第2話 待ち人
カナエを放って黙々と食べる私に、カナエは何も言わなかった。邪魔をしないようにしているつもりなのか、食事の間は微笑んで見ているだけで、話し掛けてもこない。
「ナミ、デザートは?」
「……え、食べていいの?」
「いいよ。好きなだけ」
「じゃあアイスとケーキとプリン。ケーキはチーズとムースのやつ」
「よく食べるねぇ」
カナエの言葉を無視して、さっさと注文を済ませる。気が変わったなんて言われたくない。
「ナミ」
「え、なに?」
「たまに飯奢るから会わない?」
「いつ?」
「今日と同じで、金曜の夜」
「それは無理」
即答した私に、カナエは一瞬驚き、すぐに首を傾げた。
「じゃあ、いつなら大丈夫?」
「土曜なら。金曜は大体シフト入ってるから」
「分かった。土曜の夜にメールするよ」
ふっと綻んだ表情になんとなく気まずくなりながら、運ばれてきたアイスを受け取り、スプーンを握った。
デザートを堪能したあと、会話の流れでカナエが聞いた。初めての失敗は何だったのか。私は受験だと答える。
「高校?」
「そう。高校に落ちた。滑り止めも全部。だからバイトしてる」
「ってことは、働き始めて4年目?」
「うん、4年目」
「頑張ってんね。俺と大違い」
あっさり答えた私に、カナエは微苦笑を浮かべながらも穏やかな顔をしていた。
グラスをあおり、飲み物を喉へ流し込む。飲みきった私が席を立つと、カナエも静かに立ち上がった。引き止める様子はない。
――不思議な男。
会計する背中を見ながら、そんなことを思った。
ファミレスを出て携帯を見ると、時刻は23時を指していた。まだ電車は残っている。送ってもらえそうにない場合は、基本的に電車で帰ることにしていた。
どうするつもりか様子をうかがった私に、カナエは自分を指差して笑う。
「――鉄矢だから、覚えといて。近くまで送ってく」
「……」
「家どこ?」
「萩乃の近く」
ロータリーから駅2つ。さほど離れていない地区を口にした。正確には萩乃駅から10分ほど歩く場所に住んでいるけれど、カナエ――鉄矢は『近くまで』と言ったから、それでいい。
「了解。じゃ、そこまで送る」
来たときと同じように助手席へ滑り込み、シートベルトを着用する。エンジンを掛けた鉄矢は、鼻歌混じりに車を出した。
ネオンの光る街を抜け、静かな道を緩やかな速度で進んでいく。空腹が満たされたせいか、気分は少し上向いていた。
鉄矢の引き際がよかったからなのか、それとも単純に私の選定の目がよかったのか。どちらかは分からないけれど、今までで一番心地のいい一夜だった。
「ナミ」
沈黙していた車内で、鉄矢が私の名前を呼んだ。返事をする前に言葉が続く。
「って、本名?」
型通りの質問だった。
「逆に聞くけど、本名使ってる人っているの?」
「ははっ」
至極当たり前な私の問いに、鉄矢が笑う。シートにもたれていた身体を起こし、片手でハンドルを握ったまま笑いをこぼした。
「ほとんどいないだろうね。俺くらいなもんじゃない? まぁ、苗字だけど」
鉄矢の真意は見えにくい。最終的にどうしたいのかがいまひとつ掴めなくて、困惑した。
けれど、『次』を期待するということは、少なくとも鉄矢にとって私は構うに値する女なんだろう。
もし誘ってきた男に女が惚れてしまえば、優位に立つのはもちろん男だ。1度きりですっぱり終わるもよし、曖昧な関係を続けながらロータリーで遊ぶもよし。
恋人を探す場所として、ロータリーは不向きだ。
出会いの場に来たということは、恋人になったとしても男はまたそこへ出向く。ロータリーで恋人を探そうなんて女は、ただの馬鹿だ。
「ここでいいよ。ありがとう」
ある程度近くまで来たところで下車を申し出ると、鉄矢は軽く返事をして道の端に車を停めた。
ドアを開けて外へ出る。ためらいもなくドアを閉め、1度だけ振り返った。運転席から顔を出した鉄矢が、ひらひらと手を振っていた。
私が住んでいるのは、質素なアパートだと思う。
ワンルームの狭い部屋は、全体的に何もかもが小さい。キッチンも、バスタブも。部屋はマットレスの布団が半分を占め、残りには衣装ケースとラック、それからローテーブルが1つ。
申し訳程度に作られたクローゼットには物が詰まっていて、開けるたびに冷や冷やする。それでも、家から持ち出した荷物はだいぶ少ない方だった。
家賃は3万円。毎月、父親が払っている。
期待されていた私は受験に失敗し、母親は私を見なくなった。最後に受けた滑り止めは、有名な私立の進学校だった。
頭の出来はそこそこなのに、高いランクを狙い過ぎた。期待に応えたいと頑張った過程は、母親の中では灰になった。
結果がついてこなかった。それだけで私は出来損ないだ。
「どこの上流階級だっての」
家は裕福でもない、ごく普通の家庭だ。それなのに母親が、なぜあんなにも必死になって私を進学校へ入れたがったのか、今でもよく分からない。
父親からの仕送りと稼いだ給料で、今月も十分やっていける。それなのにロータリーへ出向いたのは、やっぱり私が馬鹿だからだ。
友達もいない。知り合いもいない。休日だって、いつも暇。
だからなのか、妙に人に会いたくなる。束の間の駆け引きと触れ合いが、不思議と恋しくなっていた。
だから向かうのは、後腐れのないロータリー。面倒な付き合いなんて必要なかった。
週4日を基本にアルバイトをして、毎月6万円と少しを稼ぐ。父親からの仕送りは毎月5万円。場合によっては10万円になる。
追い出した慰謝料のつもりなのか、母親も3か月に1度、5万円を振り込んでくる。父親は毎月欠かさず、月初めに5万円を振り込んでくる。
だから貯金は増え続け、年齢のわりにはそこそこある。使う場所がないせいで増えていく残高は、心底虚しく、滑稽だった。
ぶぶぶ、と振動した携帯のサブディスプレイに、メールアドレスが表示される。
『明日はバイト?』
鉄矢からのメールは至って単刀直入だ。明日は珍しくバイトがある。土曜の休みが金曜に入れ替わっただけで、普通にアルバイトの予定だった。
『バイト』
絵文字も顔文字もない返事は、さぞかし冷たく見えるだろう。それでも愛想のない私のメールに、鉄矢は普通に返してくる。
『じゃあ、来週に誘う』
それには返信しなかった。どうなるかなんて、来週にならなければ分からない。分かったとも無理だとも言えず、結局放置することにした。
いつも金欠だと言っているのは、仕送りになるべく手をつけないためだ。堅実というわけじゃない。ただなんとなく、遊びに使う気にはなれなかった。
だから、ただひたすら貯めて、娯楽にお金を使うことはなるべく控えてきた。
「もう少し、お客さんに笑えない?」
バイトの先輩は困ったように私へ微笑む。それに浅く頷いて、なるべく笑みを作ろうと努力した。
笑えないわけじゃない。口角を上げることが、なんだか億劫なだけだった。
深夜のコンビニはとても静かだ。たまに先輩の作業する音が響き、それを聞きながら私も作業する。
「明日は店長がいるから、返品もやってみようね」
「……はい」
優しく微笑む先輩の顔には、ほんの少し陰りがあった。
能天気でもなく、暗いわけでもない。わずかに灰色の影がにじんでいるような、年齢のわりに落ち着いた、不思議な顔。
――だから、嫌いじゃない。
騒がしくもなく、静か過ぎるわけでもない空気が、妙に心地よかった。
先輩がバイトを辞めたのは、それから2か月後だった。
「え、辞めちゃったんだ? その先輩」
ファミレスで雑炊を食べながら、鉄矢に先輩の話をした。急なことというわけでもなかったらしい。店長は知っていて、先輩は1か月前に辞めることを告げていた。
私が知らなかったのは、先輩とあまり雑談をしなかったからだろう。
「寂しい?」
「……少しだけね」
「そっか」
鉄矢は何かを考えるように私へ聞き、すぐに優しく笑った。
鉄矢との不思議な関係は、2か月も続いている。それでも、食事以外で会ったことは1度もない。
今日の鉄矢は作業着姿で、どうしてもと頼まれ、休日なのに仕事へ出たらしい。
「明日から、シフトが変わる」
本当は鉄矢に言う必要なんてない。それなのに、気づいたら馬鹿正直に口から言葉が出ていた。
「うん、そっか。どう変わるの?」
「金曜日が休みになる」
鉄矢が驚いた顔をして、私はそこから目を逸らした。
金曜日はロータリーがひときわ賑わう曜日でもある。顔が利く鉄矢は、きっと今もロータリーへ行っているはずだ。
「ナミ。もしかして、気になってる?」
「別に、気になってはない」
「花金だもんね。行ってないわけがないって思ってるでしょ」
小首を傾げ、いたずらっぽく目を細めた鉄矢は、楽しそうに私を見る。
どう答えたらいいか分からなくて、雑炊をもう1口食べた。
「ま、行ってるけど。女漁りっていうより、あそこに用事があるんだよね」
「用事?」
「そう。――待ち人。もうずっと会ってないけどね」
「来ないの?」
「来ないよ、多分。だけど……もしかしたら、に賭けてるんだ」
無邪気に笑った鉄矢の瞳が、なぜか笑っていないように見えた。




