第1話 初めての失敗
ねぇ、初めての失敗って何だった?
それに答えるためには、あの日を思い出さなきゃならない。立ち尽くす私と母親。音が聞こえなくなった世界。どうしようもなく心臓は早鐘を打ち、気がつけば、世界から置き去りにされたような感覚だけが残っていた。
大きな掲示板の前で、私は――。
泣きながら私の肩を揺らす母親は、とても醜い顔をしていた。それを見ていると、不思議と笑いが込み上げてきた。『どうして』と問われても、答える術はなかった。
初めての失敗が何かと聞かれたら、私はこう答えるしかない。
「受験の失敗かな」
ことり、とグラスを置いた私に、男は目を丸くした。
――少し前。
時刻は21時。今から向かうのはロータリーだ。
VIPカーの行き交うロータリーはいつも賑やかで、出会いにあふれている。西口のロータリーは、いわば出会いの場だ。地面に座り込む女たちと、そこへ声を掛ける男たちが、入れ替わり立ち替わり現れていた。
その中を真っ直ぐ突き進み、ロータリーに隣接するコンビニへ脇目も振らず入っていく。商品が並ぶ棚からガムを選び、飲料水も手に取ってレジカウンターへ向かった。
レジに立っていた初めて見る中年の店員が、私を視界に捉えた途端、わずかに目を見開いた。それに気づかないふりをして精算を済ませ、外に出る。
見渡す限り、人、人、人。ロータリーを行き交うのは、高級車ばかりだった。
「――ねぇ、今って暇人?」
コンビニ袋からガムを取り出し、封を開けて口に放り込んだ。銀紙をくしゃりと丸め、話し掛けてきた男に差し出す。
「それ、捨てといて」
「今、暇でしょ? 1人?」
「悪いけど他当たって。あんまり好みじゃない」
「それは残念。じゃ、またね」
男は私の強気な物言いにも辛辣な断りにも動じず、にっこり笑いながら銀紙をごみ箱に捨てた。そのままあっさり身を引き、すぐ隣に座り込んでいた2人組の女へ、いそいそと近づいていく。
「なーにしてんの」
「なにもしてなぁい」
「ね、何歳?」
「うーん、何歳だと思う?」
軽口を叩き合う男女を無言で見つめ、ガムを噛んだ。パーカーのポケットに両手を突っ込み、コンビニの壁にゆっくりともたれる。
「ばぁーか」
馬鹿しかいない。その場限りの遊び相手を探すために、今日もここは賑わっている。
肘まで伸びた髪の毛先をつまみ、痛み具合を確認した。別に気になっているわけじゃない。単にすることがないからだ。
「――珍しいね」
頭上から降ってきた低い声に、気だるげに顔を上げた。
「黒髪って珍しい」
馬鹿しかいない。私も含め。
ロータリーには馬鹿が集まる。例外なく、私も馬鹿だ。
茶色く染めた髪は、ワックスでふんわりと浮かされている。男はカナエと名乗ったけれど、本名かどうかは疑わしい。ロータリーで本名を名乗る人間なんて、滅多にいない。
コンビニの壁にもたれたまま見上げる私に、カナエは穏やかな笑みを向けた。
「誰かと待ち合わせてる?」
念のための確認にすぎないことくらい、さすがの私にも分かる。
「そう見える?」
質問を質問で返しても、カナエは嫌な顔をしない。ここでは、誘う側の男より選ぶ側の女の方が強い。少なくとも誘いに乗るまでは、男の方が腰を低くしている。その先をどうするかは、自分で判断するしかない。
行きずりの相手と、どれだけ楽しめるか。そんな遊びが始まる場所が、ここ、ロータリーだった。
「見えない。だから声掛けた。どう? 俺も好みじゃない?」
「盗み聞き。悪趣味」
「偶然だから勘弁して。それより、1人って珍しいね。黒髪だし……もしかして今日がデビュー?」
「なわけないじゃん」
「だよねぇ。なんか慣れてるし」
遊び方は人それぞれだ。男を全部断っていい女になった気分で帰る女もいれば、誘ってきた男についていく女もいる。ただ遊ぶだけの女もいれば、単純にここで知り合いを増やす女もいる。
素性をどこまで明かすかも、相手をどこまで信用するかも本人次第だ。だからこそ、女は男を見定める。
さっきの2人組は、声を掛けてきた男についていった。このあとどうなるかなんて分からないし、知りたいとも思わない。
「カナエ君!」
会話の途中で割り込んできたのは、10代後半くらいの若い男だった。カナエの肩越しに見えた顔には、なんとなく見覚えがある。
「あ! ナミじゃん」
指を差してきた男を、目を細めて睨んだ。名前は思い出せないけれど、たぶん1度遊んだ男だ。
「カナエ君、ナミはダメダメ。こいつ、飯だけ奢らせて帰んだよ」
嫌そうな顔をした男に、カナエはゆるりと口角を上げる。
「じゃ、飯付き合って。その後は引き止めないって約束する」
カナエの言葉に驚いたのは、私じゃなく若い男の方だった。
「カナエ君、マジ? こいつナンバー覚えるよ?」
「へぇ、記憶力いいんだ」
「でもカナエ君。俺の知り合い、ナミには全敗してんだけど」
「別にそういう目的じゃないし、気にしてないよ。それよりお前、邪魔なんだけど」
「あ、……ご、ごめん」
カナエの言葉に怯んだのか、男はすぐにその場を離れた。すぐに視線は私へ戻ってくる。
車のナンバーを覚えるのは、自分なりの用心だ。何も控えずに知らない相手の車へ乗るよりは、ましだと思っている。
「じゃ、行こっか」
「ファミレス」
「うん?」
「ファミレスにして」
「了解」
カナエが歩き出した方向へ、私も足を進めた。路駐していた車はシーマ。シルバーの塗装は、磨かれたように綺麗だった。
助手席へ乗り込む前にナンバーを確認し、携帯へ打ち込む。それを見たカナエは、軽く笑みをこぼした。
「そうやって覚えるんだ?」
「馬鹿じゃなかったら、これで変なことはしないし」
「だろうねぇ」
しみじみと頷くカナエを尻目に、助手席へ滑り込んだ。これだけ警戒していると見せても気にしないなら、少なくとも今すぐ余計なことをするつもりはないんだろう。
それ以上の保証なんて、どこにもないけれど。
「結構ここ来てるんだけど、会ったことないよね?」
「金曜は滅多に来ないから」
「あー……それなら納得。俺、金曜しか来ないもん」
「顔が利いてるんだね」
「お、そう見えた?」
「どう見ても常連でしょ」
「さぁ、どうかな」
楽しそうに話すカナエの顔は穏やかで、雰囲気も少し大人っぽい。20代前半と当たりをつけ、手持ち無沙汰に運転する姿を眺めた。
「ナミは何歳?」
「20歳。そっちは?」
「24歳。オッサンでしょ」
「……もっと若いかと思った」
「お世辞どうも」
ロータリーからさほど離れていないファミレスの駐車場に車を停め、カナエはかちゃりと鍵を回してエンジンを切った。シートベルトを外してドアを開けると、24時間営業の看板が視界に入った。
「なに食べる?」
「メニュー見てから考える」
「だよねぇ」
けらけらと笑いながら、カナエは段差を越えてファミレスのドアを開けた。先に中へ入り、空いている席へ向かった。
窓際の一番奥を陣取ってメニューを広げる私を見て、カナエはまた笑った。
「腹減ってんだ?」
「金欠だから」
「好きなもん頼みなよ。今日は金持ってるし」
「へぇ、さすが太っ腹」
私はハンバーグ定食を選び、カナエはドリンクバーだけを頼んだ。
「ナミ、普段はなにしてんの?」
「アルバイト。最近、別のとこ辞めてコンビニで始めたばっかり」
「俺は技術職ー。6年目」
カナエの話を聞いていると、携帯の受信ランプが点滅した。手に取って開けば、メールの本文が表示される。
『元気にしてる?』
姉からのメールには返信せず、携帯を閉じた。向かいで携帯を取り出したカナエを見る。
「なに?」
「メアド教えて」
「赤外線でいい?」
「いいよ」
もう1度携帯を開き、プロフィールの名前を『ナミ』に変更した。そのままサブメニューから赤外線送信を選ぶ。
「お、来た来た。登録っと。空メ入れとくから登録よろしく」
「カナエで?」
「偽名だと思った? 残念、本名だよ。叶は苗字なんだけどね」
ロータリーで苗字を名乗る男に会ったことは、1度もなかった。だからか妙に新鮮で、思わず目が丸くなった。
「そっちこそ珍しいよね。あの場で苗字って……」
「ナミには負けるって。ソロで来てるし、髪は黒いし、化粧は薄いし?」
基本的にロータリーは、ギャルが多い場所だった。男女とも軽い人間が多く、黒髪はほとんどいない。化粧の濃さで声を掛けられる数まで変わるような場所だ。
つまり私は、あの場ではかなり浮いていた。コンビニの中年店員が目を見開くくらいには、見た目だけなら真面目な女に見えるらしい。




