17話
いつもなら、こんな真夜中に出歩いたりはしない。
日が沈んだあとの街は嫌いではないが、特別好きというわけでもなかったし、何より翌日の学校に響く。
けれど今日は、机の上で宿題をしている途中に消しゴムが小さくなりすぎて、ついにボロボロと砕けて使い物にならなくなってしまった。
明日の一時間目から容赦なくノートの提出を求めてくる先生の顔が浮かぶ。
「仕方ないか……」
私は財布だけをポケットに入れ、家の近くのコンビニへ向かった。
夜風は思ったより涼しく、人通りもまばらだった。昼間は車や自転車で賑わう道路も、今は静まり返っている。
コンビニで消しゴムと、ついでに目に入ったお菓子を買い、レジ袋をぶら下げて帰路につく。
たったそれだけの、ありふれた外出。何事もなく終わるはずだった。
―――しかし。
住宅街の街灯が途切れ、深い暗がりに差し掛かったとき、ふと背後から誰かに付けられている明らかな気配がした。
振り返ると同時に、衝撃が走った。鋭い痛みが走り、一瞬で呼吸が止まる。
刀の峰でみぞおちを正確に、深く殴られたのだ。
酸素を求めて視界が激しく明滅する。真っ暗な闇の中で、こちらを見下ろして不敵に笑う『あの男』の顔を最後に捉えながら、私の意識は急転直下で暗転した。
✳✳✳
不規則に体を揺さぶられる不快な感覚で、ゆっくりと目が覚めた。
視界がじわじわと開けていく。重い頭を振りながら、自分が移動する船の内部にいることに気づくのに、そう時間はかからなかった。
…………船?
「……ん……」
隣から微かなうめき声が聞こえ、私はハッとそちらに視線を向けた。
少し湿った木の床の上に、私と同じように戸惑った表情の桃李と、すでに鋭い目つきで周囲を警戒している重治が体を起こそうとしていた。
部屋を照らすのは、壁の棚に置かれたロウソクが一つだけ。壁のかなり高い位置に、子供が一人やっと入れそうな大きさの通気口があるが、ご丁寧にも頑丈な鉄格子が嵌められている。重治が立ち上がり、無言のまま通気口へと歩いていった。
木箱に飛び乗り、両手に力を込めて鉄格子を強く揺さぶっているが、溶接されているのかビクともしない。
「わざわざこんな場所を用意するとは、ずいぶんと用意周到だな」
重治の低い声が、薄暗い船倉の中に沈んだ。
私もゆっくりと立ち上がる。
戦争から数年経ったとはいえ、戦火を生き延びた過去がある。そんな私達を一度に拉致できる人間が、一体どれほどいるだろう。心当たりがないと言えば嘘になる。
でも、信じたくなかった。あいつが、そんなことをするなんて。
近くに転がっているコンビニのレジ袋。中には、ボロボロになった古い消しゴムの代わりに買った、まだ新品の消しゴムと、お菓子が入っている。
脱走に使えそうなものはなさそうだ。
ポケットを探るが、スマホは完全に圏外。いや、そもそもここは洋上だ。繋がるはずもない。
絶望感がじわりと胸に広がりかけたそのとき、重い鉄扉が軋みながら開いた。
ギィ、と耳障りな金属音が薄暗い船倉に響き渡る。
私達三人は、反射的にそちらへ身構えた。
現れた男を見た瞬間、私の背筋を冷たいものが走った。
「―――平八」
平八はかつてと変わらない冷徹な目でこちらを見据え、壁にもたれかかるように立ちながら、小さく鼻を鳴らした。
「目が覚めたか」
「よー、久々じゃん。なに、誘拐犯にでも転職したの?」
桃李が部屋の隅に積まれていた頑丈な木箱の上に腰掛けながら、いつもと変わらない軽い口調でそんなことを言った。
「んなわけねぇだろ」
「説得力ねー」
桃李のいつもの軽口。けれど、その声のトーンは完全に冷え切っており、座ったままの体勢もどこからでも動けるように重心が計算されている。
かつての戦友三人を同時に拉致するという暴挙。それができる実力と、明確な動機を持つ男は、目の前の平八しかいない。
「悪かったな、手荒な真似をして。だが、こうでもしねぇとお前ら、俺の前に揃ってツラ見せねぇだろ」
平八は重い鉄扉に背を預けたまま、そう言い放った。
「まぁ、再会を素直に喜んだほうが良いのか分からないけど……この船ってどこに向かってるの?」
「……今はどこにも向かってねぇよ」
平八の口から漏れた想定外の言葉に、船倉の空気がわずかに揺れた。
「どこにも向かってない?現にこの部屋はさっきから不気味に揺れてるけど。三半規管が狂ったとでも言うわけ?遊園地のジェットコースター連続で乗っても吐かない俺の三半規管を舐めるなよ!」
桃李が眉をひそめ、木箱の上で上体をわずかに乗り出す。
「ただ港の沖合をゆっくり旋回してるだけだ。目的地なんか最初からねぇよ。お前らが余計な真似をして、ここから飛び降りたところで、待っているのは冷たい海だけだ。泳いでも陸には戻れねぇよ」
「目的は何?」
私が問い詰めると、平八は薄く口角を上げた。
「あ、目的?そーだな……ひと言で言えば勧誘だな」
「「「断る!」」」
三人の声がピタリと重なる。しかし、平八の表情はピクリとも動かない。
「お前らが国をひっくり返すのを良しとしないのも、地球での『平和ごっこ』に未練があるのも分かってる」
平八は鉄扉から背を離し、ゆっくりと私達の方へ歩み寄ってきた。床の木を軋ませる足音が、やけに大きく響く。
「だから、少しそれを利用させてもらった」
「利用した……?どういう意味だよ」
桃李の声が、これまでになく低く沈む。
平八は懐から一台の小さな端末を取り出し、その画面をこちらに向けてニヤリと笑った。
「……地球って星は随分とセキュリティがガバガバだな。簡単に爆弾を仕掛けることができたぜ」
「なっ……!?」
頭に血が上り、私は思わず叫びながら平八の胸ぐらを掴もうと一歩前に出た。だが、横から伸びてきた重治の力強い腕が、私の身体を制した。
「落ち着け、紫乃」
重治の目は、すでに完全に戦場のそれへと切り替わっている。冷徹に平八を睨み据えながら、言葉を続ける。
「……人質、というわけか。俺達を自分の計画に強制的に加担させるためのな」
「話が早くて助かるぜ、重治」
平八は端末をポケットに戻すと、楽しげにクククッと控えめな笑い声を漏らした。
「お前らが俺の計画を手伝うってんなら、今すぐその爆弾の遠隔信管をぶっ壊してやる。だが、もしここで『断る』ってのを突き通すなら……一時間後、お前らの大切な街は、まとめて消えてなくなるぜ」
「てめぇ……どこまで腐りやがった!」
桃李が木箱から立ち上がり、凄まじい殺気を放つ。
ポケットを弄るが、武器になるようなものは何もない。
「腐った国を潰すには、これくらいの毒が必要なんだよ」
「ね、ねぇ、ハッタリ!ハッタリなんでしょ!?私達を引き戻すための……」
「さぁな。試してみるか?」
平八は冷たく突き放すと、再び端末を取り出して今度は映像を再生した。
画面に映し出されたのは、昨日まで私たちが生きていた、見慣れた地球の街並みだった。
お祭りで行った商店街、毎朝くぐる学校の校門、人通りが多い駅前のビル群。
「これを見ても、まだ『平和ごっこ』に浸ってられるか?」
平八の冷酷な声が、私の耳の奥で嫌な音を立てて響く。
「う、うそ……だって、平八はあんなに国民を守ろうとしていたじゃん……!母星の国民じゃないから爆破しても良いの!?」
私は画面を凝視したまま、絞り出すように声を震わせた。
画面の向こうでは、そんな危機が迫っているとも知らずに、人々は楽しそうに笑い合っている。
窓から外の青い空を眺める少年も。
手を繋ぎながら海辺の公園を歩いている恋人も。
パン屋で値引き交渉を行う家族連れも。
無数の人々が、無数の人生と共に。
思い出や後悔、日々の生活、繋いだ絆、約束、ささやかな願い。それらを丸ごと飲み込んで、最初から存在しなかったかのように、平八はすべてを塵に還すつもりなのだ。
そして、人質の中にはミカちゃん達も含まれているのだろう。
平八が以前、校外学習の時に地球に姿を現した理由と、花火の意味が、ようやく最悪の形で繋がった。
「警告はしたはずだ『デケェ花火に招待してやる』ってな」
「平八。お前、なんでそこまで俺達に執着するんだ」
「は?」
「だって、他の兵士は誘わなかっただろ?大がかりなことを一人でやってまで」
「……あいつらは新しい生活を守りたいだけの一般人だ。巻き込む価値もねぇ」
平八は鼻で笑うと、一歩、また一歩とこちらに歩み寄ってきた。その足音が、薄暗い船倉の中で重く不気味に響き渡る。
「だが、お前らは違うだろ。かつて俺と背中を預け合って、あの地獄を最前線で生き抜いた戦友だ。国をひっくり返す大仕事に、お前ら以上の相棒がどこにいるってんだよ」
「相棒、ね。人質を取って脅すような奴を、誰が相棒なんて呼ぶかよ」
桃李のいつもの軽い調子は完全に消え失せ、底冷えするような声が薄暗い船倉に響いた。木箱から立ち上がったその身体からは、かつて戦場で幾多の修羅場をくぐり抜けてきた者だけが持つ、鋭い殺気が立ち上っている。
平八はその言葉を意に介さない風に、ただ冷たい目で桃李を見返した。
「本当は一時間待ってやるつもりだったんだがなぁ。お前らのその甘っちょろいツラを見てたら、気が変わった。ぬるま湯に浸かりすぎて頭までボケちまったか?」
平八は冷酷に言い放つと、手元の端末に素早く指を走らせた。画面のカウントダウンのような数字が赤く明滅する。
「これが最後だ。俺のとこに来るか、爆破か、選べ」
重治が、静かに一歩前に踏み出した。その身体から放たれる圧倒的な威圧感が、狭い船倉の空気を爆発的な緊張感で満たしていく。
「俺達の答えは、最初から変わらん」
重治は平八の目を真っ直ぐに見据え、断固とした口調で言い放った。
「平八!俺に少し時間をくれ。話せば分かり合えるはずだ!」
「何を話す必要がある」
平八は冷徹な眼差しを崩さない。端末を握る指先は、いつでも最悪の選択を実行できると言わんばかりに微動だにしていなかった。
「確かに、今の国が腐り落ちた理由は上にある……が、武力で上がれば二の舞になると、なぜ分からん!」
熱を帯びた重治の言葉。しかし、平八の表情に動揺の色はなかった。ただ、その双眸の奥に宿る暗い炎が、より一層深く静かに燃え上がる。
「俺は作戦を練るのが得意だし、内部から政治的に変えていけばいずれ……」
「重治。俺がいつ、この国を変えたいつったよ」
「ッ……」
重治の息が詰まる。
「俺は戦友達や国民を見捨て、私欲に溺れている奴らが許せねぇ。ただそれだけだ。新しい国を作るだの、高尚な理念なんざ最初から持ち合わせちゃいねぇよ」
「……その先に何があると言うんだ」
「さぁな。……獣が通ったあとにも道ができるんだぜ」
「屁理屈を……!」
重治の鋭い拒絶に、平八の口元がわずかに歪んだ。
「……ハッ、言うじゃねぇか、重治。手ぶらで俺に勝てると思ってんのか」
平八の口元が、わずかに歪んだ。
「なら、その言葉が本当かどうか、試させてもらうぜ」
「やめて!」
我を忘れて飛び出した私の手は、平八が端末のスイッチにかけようとしていたその手首を、ぎりぎりのところでガシリと掴んでいた。
「お願い、やめて!」
「やめてって言われてやめるほど、俺は聞き分けの良いバカじゃねぇよ。離せ」
「……私が戻るから……あの戦場でも、どこへでも戻るから……お願いだから、こんなことしないで!」
私が口にした言葉の重さに、平八の動きが完全に止まった。
掴んだ手首が、一瞬、確かに跳ねるように震えた。冷徹に閉ざされていた平八の瞳が大きく見開かれ、複雑な感情を宿した口の端が微かに上がった。
「紫乃、よせ!」
重治が焦ったように私を引き剥がそうと腕を掴む。
「そうだぞ!」
桃李もまた、激しい焦りから私を引き剥がそうと手を伸ばした。
「だって……!」
二人の戦友に向けて、私は涙をボロボロと溢れさせながら叫んだ。
「だって、こうするしかないじゃない……! 私が戻れば、ミカちゃんたちも、学校も、みんな助かるんでしょ!? 私の大切な日常を壊されるのも嫌だけど、私が拒んだせいで、みんなの未来が奪われるなんて……。そんなの……!」
私の叫びが、湿った空気の中に消えていく。船倉の中が一瞬、静まり返った。
平八の手首を掴む私の手は、ガタガタと小刻みに震えていた。
怖い。
地獄のようなあの戦場に、また血と硝煙の日々に戻るなんて、本当はとても恐ろしい。でも、画面の向こうにいた人々を守れるなら、その対価として私の自由なんて、いくらでも差し出す覚悟だった。
「……交渉成立、と言いたいところだがなぁ。お前一人が戻ったところで、俺の計画には人員が足りねぇんだよ」
平八は視線を桃李と重治へと転じた。
「桃李も重治も、お前らはどうする。紫乃を一人で地獄に行かせるか?」
「……っ、俺は……」
桃李が悔しそうに奥歯を噛み締める。その拳から血がにじむほど強く握りしめられていた。
「約束は守るんだろうな?」
重治が静かに平八に問う。
「ああ、約束はちゃんと守ってやるよ」
「なら.....」
重治は強く目を瞑り、それからすべてを受け入れるように右手をスッと上げた。
「俺も、地獄へ戻ろう」
「話が早くて助かるぜ、重治。……で、桃李。お前はどうする? 二人が戻るって言ってるんだ。お前一人だけあっちの星に残されて、寂しく『平和ごっこ』を続けるか?」
桃李は低く息を吐き出すと、殺気をはらんだ目を平八へと向けた。
「……一人で残るわけねぇだろ。紫乃と重治が行くなら、俺も行く。だけどな平八……お前を相棒なんて呼ぶ日は、もう二度と来ねぇからな」
「ハッ、上等だ」
平八はそう言い捨てると、手元の端末を両手で掴み、パキリと音を立てて二つに折った。
「お前らに一つ朗報だ。……最初から爆弾なんて仕掛けちゃいねぇよ」
平八は折れたプラスチックの破片を床に放り捨てると、ふっと自嘲気味に、だがどこか憑き物が落ちたような晴れやかな顔で鼻を鳴らした。
「なっ……!?」
「つまり、俺達は罠にまんまと引っ掛かったわけね……最悪」
桃李が頭を抱えてしゃがみ込む。
「だが、契約は契約だからな。お前らが自分の意志で『戻る』って言った言葉、今更取り消しはナシだ」
クククッと楽しそうに笑いながら、平八は重い鉄の扉を押し開けた。隙間から差し込んできた西日がとても眩しくて、私達は思わず目を細めてしまう。
「……出してくれるのか?」
「いつまでも戦友を薄暗い場所に閉じ込めておくかよ」
平八はそうぶっきらぼうに吐き捨てると、開け放った鉄扉の脇へと一歩退いた。
「ちなみに」
甲板へと続く階段を上りながら、桃李が平八の横を通り過ぎる瞬間に尋ねる。
「俺達が全員保身に走って、地球の奴らなんて知るかって言ってたらどうしてた?」
「見限って、喉を掻っ切ってた」
「こえーやつ」
甲板へと続く階段を上り、外へと踏み出した瞬間、西に傾きかけた強烈な夕日と、どこまでも広がる心地よい潮風が私たちの頬を乱暴に撫でた。
オレンジ色に染まる海原。波頭がキラキラと光るその美しさは、歴史自然公園で見たあの穏やかな海と、酷いほどによく似ていた。
ミカちゃん達は守られたのだ。爆弾なんて最初からなかったとしても、結果的にあの子たちの未来は守られた。それは私にとって、何よりも嬉しくて、心の底から安心することで……。
でも、明日からはもう、あの中に私はいない。私の席は、空っぽのままだ。
「なぁ、お前、一人なの?」
「ああ」
「ボッチ?」
「海に落としてやろうか」
「やれるもんならやってみなー。俺の華麗なるクロールで泳ぎきってやるから」
「ハッ、泳ぎきる前にサメの餌にしてやるよ」
平八はそう言い返しながらも、その口元には、かつて戦場で共に見せたような不敵な、どこか懐かしい笑みが微かに浮かんでいた。
「紫乃」
重治が私の肩に、ぽんと静かに手を置いた。
「……悔いはないか」
「悔しい、よ。すっごく悔しい」
私は遠ざかっていく陸地を見つめながら、拳をぎゅっと握りしめた。
ミカちゃんやみんな。明日、連絡もなしに私の席が空っぽになっているのを見て、どう思うのだろう。どんな顔をするだろう。急にいなくなった私を、怒るかな、それとも心配してくれるかな。
「でも……みんなが無事でいてくれるなら、私はこれで良かったんだよ。平八に騙されたのは、ものすごく腹が立つけどね」
平八に向けて思いきり睨みつけると、「悪かったな」と、ちっとも反省していなさそうな声で返されてしまった。
(守れたんだ。これで、良かったんだよね……)
そう、心の中で自分自身に言い聞かせる。
私達は刀を捨て、地球という平和で温い水に浸かって、ほんの少しだけ『普通の子供』になる夢を見た。
そう、夢だったんだ。
夢ならいつか覚めなきゃいけない。
けれど、私達の本質は、やっぱりあの地獄を生き抜いた修羅のままで。
誰かのために血を流し、誰かのために自らのすべてを投げ打つことしかできない、不器用なあの頃のままだった。
初めから、あの温かい日常の光なんて何も知らなければ。
こうして選んだことにも、捨てたことの痛みにさえ、気づかずに済んだのかな……。
遠ざかる陸地を見つめる私の瞳に、容赦のない夕日が痛いほど焼き付いていた。




