第2話 軍師、城門を押す
軍師が橋を担いだ、と書ける報告書は、この世にはない。
橋の件は、王都へ送る報告書の中で「敵補給路の一時遮断」となった。
嘘ではない。嘘ではないが、クラリスはその一文を見るたび、石橋を肩に乗せて歩くレオンの背中を思い出した。胃の奥が、まだ少し重い。
報告書は便利だ。
現実を、まともな顔にしてくれる。
「次の作戦だ」
レオン・バルクが地図を広げた瞬間、クラリスの指先が止まった。
嫌な予感がした。
いや、予感ではない。経験だ。
「敵はローヴェン砦に籠もった。城門は厚く、上に弓兵がいる。正面から攻めれば損害が出る」
「はい。そこまでは非常に軍師らしいです」
クラリスは慎重に頷いた。褒めすぎてはいけない。この男は、褒めるとそのまま崖へりかねない。
レオンは砦の図面を指で押さえた。
「だから城門を開ける」
「ええ……正しいです」
「俺が行く」
「違います」
即答だった。
胸の奥で何かがきゅっと縮む。クラリスは羽根ペンを置き、両手で机の縁を掴んだ。逃げ場が必要だった。主に、自分の理性に。
「……なぜ軍師が城門へ行くのですか?」
「もちろん開けるためだ」
「兵に開けさせます!」
「兵が死ぬ」
短い返事だった。クラリスは言葉を失った。
レオンの顔は変わらない。無茶を言っている時の顔だ。けれど、その奥にあるものまで雑ではない。彼は本気で、兵の損害を減らす道を見ている。
だから困る。
「……どうやって開けるつもりですか?」
「押す」
「は?…………押す??」
「城門は内側から閂で止まっている。外から押しても普通は開かない」
「普通は、という言葉が怖いですが…」
「閂ごと押し込めば開く」
クラリスは目を閉じた。
暗闇の中でも胃が痛かった。
「レオン様。城門は、礼儀正しく押したら開く扉ではありません」
「礼儀は不要だ」
「不要なのはあなたの常識です!!」
作戦卓の周りにいた兵士たちが、顔を伏せた。笑ったら負けだと思っているのだろう。クラリスも少し笑いたかった。泣くよりはましだから。
だが、斥候長の若い兵が一歩出た。
「でも、レオン様が門を引き受けるなら、俺たちは壁下へ近づかずに済みます!」
クラリスは彼を見る。若い。首筋にまだ昨日の泥が残っている。橋の作戦で生き残った兵だ。名前は確か、ルーク。昨日の作戦卓で、なぜか一人だけ嬉しそうに口元を緩めていた兵だった。
その目に、笑いはなかった。信じている。
この無茶な軍師が、兵を帰してくれると。
クラリスは息を吐いた。怒る力が少しだけ抜ける。それでも、止める役を捨てるわけにはいかない。
「……条件があります」
「なんだ?言え」
「一人で行かないください。弓兵の射線は私が計算します。盾兵を二列。湿った藁で煙を出す。城門前まで行くなら、せめて死なない準備をしてください」
レオンは少しだけ考えた。
「わかった」
「……本当にわかっていますか?」
「死ななければいい」
「違います。だいぶ違います」
けれど、クラリスはもう地図へ線を引いていた。
止められないなら、せめて形にするしかない。
ローヴェン砦の前は、嫌なほど開けていた。
草は刈られ、岩はどかされ、隠れる場所がない。弓兵にとってはいい庭だ。攻める側にとっては、ただの処刑場だった。
クラリスは盾兵の列を見て、唇を湿らせる。
手のひらが汗で湿っていた。革手袋の内側が気持ち悪い。戦場に来るたび思う。自分は剣を振るう人間ではない。それでも、線一本を間違えれば兵が死ぬ。
レオンは隣で肩を回していた。
緊張している様子はない。
腹立たしいほど、いつも通りだ。
「レオン様」
「なんだ?」
「城門は開けるものです。破壊するものではありません」
「開けば同じだ」
「同じではありません!修繕費が違います!」
「敵の砦だ」
「あとでこちらが使うんです!!!」
レオンは少し驚いた顔をした。
「そうか」
「今気づいたんですか!?」
「勝った後のことは、お前が見るだろう」
クラリスの胸が、変なふうに詰まった。
信頼。たぶん、そういうものだった。
けれど喜ぶには、状況が悪すぎる。城門の上では敵弓兵がこちらを見下ろし、弦を引き始めていた。
「盾、前へ! 藁に火を!」
クラリスが叫ぶ。
湿った藁がくすぶり、白い煙が低く流れた。喉に絡む匂いに咳が出そうになる。だが、煙は弓兵の目を少しだけ奪った。
矢が飛ぶ。
盾に当たる音が続いた。肩が跳ねる。近くの兵士が歯を食いしばるのが見えた。怖いのだ。当然だ。クラリスだって怖い。
その中を、レオンが進む。
盾兵の後ろではない。盾兵の前だった。
「下がってください!」
「俺が前の方が盾が減る」
「そういう問題ではありません!!」
レオンの腕に矢が一本かすった。血が走る。クラリスの喉が詰まった。
だが、彼は止まらない。城門の前に立つ。
分厚い木と鉄板で固められた門が、彼の前にあった。普通なら、破城槌を使う。数十人で運び、何度も叩きつけて、ようやく門を揺らす。
レオンは、門の継ぎ目を一度だけ見た。
どこを押せば閂が折れるか、計算している目だった。
それから、両手を門に当てた。
「待って……」
クラリスの声は小さかった。
届いたかどうかはわからない。
次の瞬間、門が軋んだ。
低い音が腹に響く。木が悲鳴を上げ、鉄具が歪み、内側の閂が耐えきれずに鳴った。城壁の上で敵兵が叫ぶ。
「何だ、あれは!!」
「破城槌か!?」
「人が押してるぞ!?」
「人であってたまるか!」
クラリスは拳を握った。笑えない。
笑えないのに、砦の上の敵が混乱しているのがわかる。弓兵の狙いが乱れた。敵は門ではなく、門を押す男を見ている。
だから、隙ができる。
「今です! 右弓隊、上の三人を抑えて! 左の槍隊、門が開いたら内側へ!」
声が出た。震えなかった。
それが少しだけ嬉しくて、悔しかった。
レオンの無茶に慣れてしまった気がしたからだ。
「ふんっ」
門が、内側へめり込んだ。閂が折れる音がした。嫌な音だった。木が裂け、鉄具が跳び、城門が半分だけ開く。
レオンはその隙間に肩を入れた。
「開いたぞ」
「開け方が犯罪です!」
「戦だからしょうがない」
「言い返せないのが嫌です!」
王国兵がなだれ込む。
だが、レオンは先に進まなかった。門の内側で、倒れかけた敵兵の剣を蹴り飛ばし、味方の通り道を空ける。門を開けただけではない。兵が入れる幅を、体で守っている。
クラリスはそこを見て、奥歯を噛んだ。
この人は、無茶苦茶だ。でも、雑に命を使わない。
自分の体だけを先に危ない場所へ置く。
だから兵たちはついていく。だから自分も、止めきれない。
砦の制圧は昼過ぎには終わった。
敵将は捕らえられ、味方の死者は出なかった。負傷者は数名。通常の攻城戦なら考えられない結果だった。
クラリスは城門の前で、壊れた閂を見下ろしていた。
胃は痛い。でも、膝から力が抜けそうになるほど安堵していた。
「クラリス」
レオンが呼ぶ。腕の傷には布が巻かれている。
本人は気にしていない顔だ。それがまた腹立たしい。
「……何ですか」
「門は開いた」
「……見ればわかります」
「修繕費は?」
「今それを私に聞きますか!?」
「お前が見ると言った」
クラリスは額を押さえた。
言った。確かに言った。
言ったが、そういう意味ではない。
「……レオン様」
「なんだ?」
「次から城門を押す前に、せめて一言ください……」
「言った」
「“開ける”は予告ではありません!犯行声明に近いです!!」
近くにいた兵士が吹き出した。クラリスが睨むと、すぐに咳払いへ変える。遅い。
レオンは壊れた門を見たあと、クラリスを見た。
「怒っているのか」
「ええ!怒っています!」
「味方は死んでいない」
レオンはもう一度繰り返した。
「味方は、死んでいない」
その繰り返し方が、少しだけ妙な間を持っていた。
「だから、もっと怒りにくいんです……」
言ってから、クラリスは自分で驚いた。本音だった。
彼の策は無茶だ。報告書に書けない。常識から外れている。胃が痛い。寿命もたぶん削れている。
それでも、兵が生きて笑っている。
その事実が、彼女の怒りをいつも変なところで止めてしまう。
レオンは少しだけ黙った。
「……死なせない」
短い言葉だった。飾りもない。慰めにもなっていない。
けれど、クラリスの胸には妙に残った。
ずるい。クラリスは目を逸らした。
そういうところだけ、軍師みたいなことを言う。
「……そのために、私へ先に相談してください」
「わかった」
「本当に??」
「たぶん」
「たった今、信頼が壊れました……」
レオンは不思議そうに首を傾げる。
クラリスはもう怒る気力もなく、報告書用の板を取り出した。指先はまだ少し震えている。怖かったのだ。彼が矢に当たるのも、門に潰されるのも、兵が死ぬのも、全部。
その全部を、書類には書けない。
だからせめて、こう書く。
ローヴェン砦、損害軽微にて制圧。
城門については、まだ書かない。
昨日の橋も、今日の城門も、書ける日は来ない気がした。
クラリスは壊れた門を見て小さく息を吐いた。
今夜もまた、自分の胃を守る仕事が増えた。




