第1話 軍師、橋を担ぐ
「敵の補給線を断つ」
作戦卓の前で、レオン・バルクは静かに言った。
その声だけ聞けば、まともな軍師に思えた。地図を見下ろす横顔も、無駄に落ち着いている。参謀補佐のクラリス・エルネアは羽根ペンを握り直し、胸の奥に残っていた小さな期待を、まだ捨てきれずにいた。
今日こそは、今日こそは普通の策かもしれない。
「だから橋を持ってくる」
期待は、五秒で折れた。
「……ちょっと待ってください」
ペン先から黒い雫が落ち、指先に冷たく滲む。クラリスはそれを拭う気にもなれなかった。
「橋を、落とすのではなく……?」
「落としたら味方も渡れないだろう」
「それはそうです。ですが、持ってくるものでもありません」
「敵が使う前に外す。こちらの陣地へ運ぶ。必要なら戻す」
「理屈は合っています!ですが、手段が終わっています」
卓を囲む将校たちは、誰も助けてくれなかった。視線だけが泳いでいる。皆、この若き軍師の策が成功してしまうことを知っていた。だから怖いのだ。
一番奥にいた若い斥候だけが、なぜか少し嬉しそうに口元を緩めていた。それが何より怖かった。
クラリスも怖かった。
レオンは馬鹿ではない。むしろ、戦場を見る目は異常に鋭い。敵がどこで焦り、どこで荷を捨て、どこから崩れるかを、彼は誰より早く読む。
地図のどこを叩くか、目だけは迷わなかった。声と手は終わっているのに、目だけは妙に静かだった。
問題は、その後だ。
全部、筋肉で済ませようとする。
「出るぞ」
「……どこへですか?」
「橋だ」
「橋に行く軍師なんて聞いたことがありません!!」
「なら、最初になれるな」
「名誉ではありませんよ!?」
声を張ったせいで、喉が少し痛んだ。クラリスは自分の胃のあたりを押さえる。最近、レオンの作戦を聞くと、まず体のどこかが痛くなる。
今回は胃だった。かなり危ない。
渓谷の石橋は、前線から半刻ほどの場所にあった。
雨の後で川は濁り、岩にぶつかる水音が腹に響いた。橋は古く、広い。馬車二台が並んで渡れるほどの石橋を前にして、クラリスは少しだけ安心した。
さすがに無理だ。
人間が持てる大きさではない。どれだけレオンがおかしくても、これは無理だ。そう思った瞬間、レオンが外套を脱いだ。
「なぜ脱ぐんですか??」
「邪魔だ」
「何の邪魔ですか……」
「橋を持つ」
クラリスは目を閉じた。開けても、現実は変わらなかった。
「レオン様。橋というものは、土地と仲良くしている建造物です。無理に引き剥がすと、たぶん土地も嫌がります」
「石は嫌がらないぞ」
「私が嫌がっています!!」
兵士たちが小さく肩を揺らした。笑ったのではない。たぶん震えたのだ。そう思いたかった。
レオンは橋の下へ降り、石の継ぎ目に指をかける。腕の筋が盛り上がった。水音に混じって、石が軋む低い音がした。
クラリスの背筋が冷える。
「まさか…………」
「離れていろ」
「まさかですよね!?」
「少し揺れる」
「少しで済むものを、人は橋とは呼びません!!!」
地面が震えた。
足裏から嫌な振動が上がり、クラリスは思わず近くの兵士の袖を掴んだ。その兵士の方が顔色を失っていたので、すぐに離した。頼れる人間がいない。
石橋が、浮いた。言葉が出なかった。
橋が浮いた。
目の前で。
軍師の肩に乗って。
「クラリス」
「………………はい」
「道は?」
「……あなたの正気へ戻る道は、たぶんもうありません」
「違う。輸送路の話だ」
レオンは真面目な顔をしている。額に汗ひとつ浮かべていない。橋の端から土が落ち、クラリスの靴に当たった。冷たい泥が跳ね、白い靴下を汚す。
怒るべきなのに、怒る余裕がなかった。
「……北の林を抜ければ、敵から見えにくいです」
「わかった」
「わからないでください」
行軍が始まった。
先頭は、橋を担いだ軍師。
後ろに、無言の兵士たち。
最後尾に、報告書の文面を必死に考えるクラリス。
敵補給線遮断のため、橋梁を一時撤去。
(違う。綺麗すぎる……)
じゃあ、敵補給線遮断のため、橋梁を物理的に移動。
(違う。正直すぎる……)
敵補給線遮断のため、軍師が橋を担ぎました。
(無理だ……絶対に書けない……)
「クラリス様!」
斥候が林の向こうから駆け戻ってきた。息が荒い。泥が膝まで跳ねている。
「敵輸送隊、予定より早いです! もう渓谷に近い!」
クラリスの胃がぎゅっと縮んだ。
「レオン様、まずいです!橋を戻す時間がありません」
「戻さない」
「ではどうするんですか!?」
「敵の背後に置く」
クラリスは一瞬、意味がわからなかった。
わからない。いや、わかりたくない。
「敵は橋が消えていると思って止まる。焦る。背後に橋が現れれば、退路か迂回路だと思って動く。隊列が乱れたところを叩く」
クラリスは唇を噛んだ。
嫌だ。ものすごく嫌だ。
なのに、作戦としては通っている。敵は荷を守りたい。道が消えれば混乱する。そこへ新しい逃げ道が見えれば、必ず誰かが動く。
「……理屈は合っています」
「なら行くぞ」
「ですが!?橋は背後に突然現れるものではありません!」
「今から現れる」
「あなたが原因でしょうがぁ!!!」
戦闘は一瞬だった。
敵輸送隊は渓谷の前で足を止めていた。あるはずの橋がない。兵は騒ぎ、馬は鼻を鳴らし、荷馬車の車輪は泥に沈みかけている。
そこへ、林からレオンが出た。橋を担いで。
「橋だ!」
「橋が歩いているぞ!」
「違う、人が橋を持っている!」
「アホか!!もっと嫌だろ!」
敵の叫びが乱れた。
クラリスは額を押さえた。敵に少し同情した。自分が敵だったら、たぶん剣を抜く前に泣く。
レオンは敵の背後へ橋を置いた。地面が大きく鳴り、馬が暴れる。敵兵の目が一斉に橋へ向いた。
その隙に、王国兵が左右から飛び出す。
レオンも走った。
軍師の走り方ではなかった。橋の欠片を握ったままの男が、進路にある敵だけを丁寧に吹き飛ばしていく。剣は抜かない。拳、肩、なぜか拾った橋の欠片。使えるものは全部使う。
クラリスの胸が、妙に熱くなった。
悔しい。腹立たしい。
でも、兵士たちが死なない。
レオンの無茶は、いつもそうだった。見ている側の寿命を削るくせに、味方の命は削らせない。だから誰も、本気で彼を止めきれない。
敵輸送隊は降伏した。
荷は無事。味方の損害は軽い。補給線は断った。
結果だけなら、大勝だった。
結果だけなら……
夕方、陣地に戻ったクラリスは報告書の前で固まっていた。指先にはまだインクが残り、胃はまだ重い。幕舎の外では、兵士たちが小声で今日の橋について語っている。
やめてほしい。語れば語るほど、報告書に書く現実味が増す。
「書けたか?」
レオンは干し肉を噛みながら聞いてきた。
「……書けません」
「なぜだ」
「……軍師が橋を担いだ事実を、王都へ送れる文章に変換できないからです……」
「敵の補給線は断った」
「……はい」
「味方の損害は少ない」
「……ですね」
レオンは干し肉を噛んだ。少し噛み方が遅かった気がした。
「作戦は成功だ」
「……しっかり成功しています」
「なら問題ないな」
クラリスは顔を上げた。この男は間違っていない。
間違っていないのが、一番腹立たしい。
「レオン様……」
「なんだ?」
「次からは、実行前に私へ相談してください……」
「しているだろう」
「せめて、せめて止められる時間をください!!」
「止めるのか?」
クラリスは黙った。止めたい。
でも、止めたら今日の兵士たちの何人かは戻らなかったかもしれない。そう考えると、喉の奥が詰まる。
彼女は軍師補佐だ。
正しさだけで兵を殺すより、非常識でも生かす策を選ぶべき時がある。それくらいは、わかっている。
わかっているから、余計に腹が立つ。
「……止めません」
「なら相談する意味がない」
「あります! 私の胃を守る意味があります!」
レオンは少し考えた。
「胃は鍛えられるのか?」
「鍛える前提で話さないでください!」
幕舎の外で、誰かが吹き出した。クラリスは肩を震わせる。怒りたいのに、少しだけ笑いそうになった自分が悔しい。
レオンは干し肉を半分に割り、差し出してきた。
「いいから食え。疲れている」
「誰のせいだと思っているんですか!?」
「敵か?」
「……あなたです………」
そう言いながら、クラリスは受け取った。
硬い肉を噛むと、塩気が舌に広がる。疲れた体には少しだけありがたかった。それがまた腹立たしい。
この男の隣にいれば、明日もきっと胃が痛い。
でも今日、兵士たちは帰ってきた。
クラリスは報告書に視線を落とし、一行目を書いた。
敵補給線、予定通り遮断。
橋については、まだ書かない。
いつか書ける日が来るのか、それはわからなかった。
今夜くらいは、自分の胃を守りたかった。




