第3話 軍師、森を薄くする
ローヴェン砦の城門は、修繕に三日かかることになった。
クラリスは報告書に「城門機能の一部損耗」と書いた。嘘ではない。嘘ではないが、閂ごと門を押し込んだ男がすぐ横で干し肉を噛んでいる現実まで、紙に乗せる気にはなれなかった。
紙は便利だ。
都合の悪い現実を、少しだけまともに見せられる。
「次は森だ」
レオン・バルクが地図を広げた瞬間、クラリスの胃が先に反応した。
きゅっと縮む。
まだ何も聞いていないのに、体だけが危険を察している。
「……森がどうしたんですか?」
「敵の残兵が、この黒樫の森に逃げた。夜になれば、こちらの輸送隊を襲う」
「はい。森に潜んだ敵の夜襲は危険ですね」
クラリスは慎重に頷いた。
ここまでは普通だ。まだ普通だ。
「だから、隠れる場所をなくす」
「……方法を聞くのが怖いです」
「森を薄くする」
クラリスは羽根ペンを置いた。
置かないと、折りそうだったからだ。
「……森は、布ではありません」
「木が多いから隠れる。減らせばいい」
「理屈は合っています。ですが規模がおかしいです」
レオンは不思議そうに森の印を指で叩く。
「全部ではない。敵が使う道沿いだけでいい」
「今、少し安心しかけた自分が嫌です……」
作戦卓の周りにいた兵士たちは、また黙っていた。最近、彼らはレオンの作戦を聞くと、まずクラリスを見る。止めてくれるかもしれない相手を見る目だ。
その視線が痛い。止めたい。
でも、止めたところで代案がいる。
黒樫の森は深い。斥候を入れれば、敵の方が地の利を持つ。夜襲を受ければ、輸送隊も負傷兵も危ない。
クラリスは地図を見下ろし、唇を噛んだ。
「……敵が潜むなら、南の古道沿いです。そこだけ視界を通せば、夜襲の足は鈍ります」
「なら、そこを薄くする」
「木こりを集める時間はありませんよ……」
「俺がやる」
「……言うと思いました」
胸の奥が重くなる。もう驚かない自分が嫌だった。
けれど、レオンは無茶をするだけではない。
兵を死なせないために、まず自分が前へ出る。腹立たしいほど、その一点だけはぶれない。
「……条件があります」
「言え」
「根元を全部抜かないでください。地面が崩れます。倒すなら道と逆向き。枝を積んで敵の退路を塞ぐ。あと、私の指示なしに大木を動かさない」
「わかった」
「本当にわかっていますか??」
「お前が言うまで、大木は動かさない」
クラリスは少しだけ息を吐いた。
ほんの少しだけ安心した。
それが間違いだったと、すぐに知る。
黒樫の森は、昼でも暗かった。
湿った土の匂いが強く、足元の落ち葉は雨を含んで重い。枝が擦れる音のたび、クラリスの肩が小さく跳ねる。敵が潜んでいるかもしれない森は、ただ歩くだけで喉が渇いた。
レオンは先頭に立っていた。
斧を持っていない。なんなら、素手だった。
「あの、斧は?」
クラリスが恐る恐る聞くと、レオンは近くの黒樫に手を当てた。
「必要か?」
「……必要です。普通はですが……」
「時間がかかる」
「あなたの普通を基準にしないでください!!」
レオンは木の幹を掴んだ。
クラリスの背筋が冷える。
「ま、待ってください。根元を全部抜かない約束ですよね??」
「倒すだけだ」
「倒すだけ、という言葉を木に使わないでください……」
次の瞬間、幹が軋んだ。
低い音が森の奥へ沈む。土が盛り上がり、葉が震え、鳥が一斉に飛び立った。クラリスは思わず耳を塞ぎかけたが、途中でやめた。指示を出す手が塞がる。
木が、ゆっくり傾いた。
「うそ、うそうそ!! 右へ!右です、レオン様!」
「わかった」
「もっと、もっと右!」
「右だ」
「あなたの右は大雑把すぎます!」
黒樫は古道の脇へ倒れた。
地面が大きく揺れ、胸の奥まで響く。落ち葉が舞い、土の匂いが一気に濃くなった。クラリスは咳き込み、目に入った埃を袖で拭う。
腹が立つ。でも、視界は開いた。
森の奥まで、光が一本通った。
兵士たちが小さく声を漏らす。感嘆と恐怖が混ざった声だった。
「……効果はあります」
クラリスは悔しさを飲み込みながら言った。
「なら続ける」
「私の指示を聞いてからです!」
その声に、レオンは素直に止まった。
止まった。それだけで、クラリスの胸が少し軽くなる。
自分の言葉を聞いてくれている。無茶苦茶な男なのに、そこだけは妙に律儀だった。
何本か木を倒すと、古道沿いは明るくなった。
敵が隠れるには浅い。だが逃げ道は枝で塞がれている。クラリスは地図と森を何度も見比べた。頭の中で道を繋ぎ、敵が動くならどこかを考える。
わからない。
敵が本当に夜襲を選ぶのか、それとも森の奥へ逃げるのか。今の自分には読み切れない。
だから、レオンを見る。
彼は倒した木の上に片足を乗せ、森の奥を見ていた。目は静かだった。橋を担いだ時とも、門を押した時とも違う。敵がどこで息を潜めるかを、本気で読んでいる目だった。
「レオン様」
「来る」
「どこからですか?」
「上だ」
クラリスは一瞬遅れた。
上。
その意味に気づいた時、枝の上から敵兵が飛び降りてきた。
「伏せて!!!」
クラリスの声と同時に、レオンが倒した木を蹴った。
幹が回る。
信じられない勢いで横へ転がり、飛び降りた敵兵たちの足場を奪った。彼らは着地の前に姿勢を崩し、落ち葉の中へ転がる。
レオンは踏み込んだ。剣は抜かない。
拳で一人を沈め、肩で二人目を弾き、倒木の枝を掴んで三人目の槍を払う。森の中なのに、彼の周りだけが広場みたいに開いていた。
「左の枝道、塞いでください! 敵が逃げます!」
クラリスが叫ぶ。
兵士たちが動いた。昨日までなら、彼らはレオンだけを見ていたかもしれない。けれど今は、クラリスの声で動く。
それが怖かった。
同時に、少しだけ嬉しかった。
自分も、この滅茶苦茶な作戦の中で役に立っている。
「レオン様、奥の二人は捕らえてください! 逃げ道を知っているはずです!」
「わかった」
「投げないでください!」
遅かった。
レオンは敵兵二人の襟を掴み、近くの落ち葉の山へ放った。柔らかい場所を選んだらしく、骨の折れる音はしなかった。
「生きている」
「そういう問題ではありません!」
敵の夜襲部隊は、半刻も持たずに崩れた。
森に隠れていたはずの敵は、隠れる場所を減らされ、退路を枝で塞がれ、上からの奇襲も倒木で潰された。作戦としては完璧に近い。
実行方法は、報告書に書けない。
まただ。
また、結果だけは正しい。
夕暮れ、古道には見張りの松明が並んだ。
森は少し明るくなっている。いや、明るくなってしまっている。クラリスは倒れた黒樫を見て、額に手を当てた。
「地図を書き直す必要がありますね」
「少し変わっただけだ」
「森が減ったんです。少しではありません」
「敵は隠れられなくなった」
「はい……作戦としては成功ですが……」
認めるしかなかった。
その一言を言うたび、胃が痛いのに、胸の奥が妙に温かくなる。兵士たちが無事だからだ。誰も夜襲で喉を裂かれず、誰も暗い森で置き去りにされなかった。
レオンは倒木に腰を下ろし、クラリスへ水筒を差し出した。
「飲め。声が枯れている」
「誰のせいだと思っているんですか?」
「敵か?」
「あなたです!!だいたいあなたです!!」
それでも、水筒を受け取った。
喉に流れた水は冷たかった。思ったより自分が渇いていたことに気づき、少し悔しくなる。
「クラリス」
「何ですか?」
「お前の指示はよかった」
不意に言われて、指先が止まった。
レオンは本当にそう思っている顔だった。茶化しも慰めもない。だから余計に困る。
「……褒めても、森を倒したことは報告します」
「構わない」
「本当に書きますよ?」
「勝ったからな」
クラリスは深く息を吐いた。
この男は、わかっていない。
いや、わかっているのかもしれない。
勝ったことも、兵が生きていることも、自分が怒っている理由も。全部わかった上で、次もきっと同じことをする。
クラリスは報告板を膝に乗せた。
黒樫の森、古道周辺の視界を確保。
そこまで書いて、手が止まる。
森を薄くした、とは書かない。
今日もまた、彼女は事実と王都の常識の間で、苦い顔をして筆を動かすことを選んだ。
============================
1〜3話で、レオンとクラリスの関係性を書きました。
ここまで読んで「続きが気になる」と思っていただけたら、フォローやハートで応援いただけると、本当に励みになります。
明日20時に4話を公開予定です。
4話からは、クラリスがなぜこの脳筋軍師の補佐になったのかの過去編に入ります。
次も見てくださると嬉しいです。
============================




