恩人へ
暖炉の火が静かに爆ぜる。
先ほどまで穏やかに流れていた空気が、一瞬で凍り付いた。
蓮華の花が咲くような微笑みはそのままだった。けれど、その奥に宿る圧が恐ろしい。まるで般若が微笑んでいるような凄みだった。
「どういうことです?冬竜王様」
応接室の温度が数度下がったような錯覚に、隣にいた炎竜王は引き攣った笑みを浮かべた。
「お、おい蓮華……そんな怖い顔をするな」
対照的に、雪那だけはきょとんと首を傾げている。
何故蓮華が怒っているのか分からなかった。
春の国で支給されていた質素な衣と比べれば、冬の国で与えられた服は、生地も仕立ても格別で、不自由を感じたことなど一度もない。
蒼玄はきまり悪そうに僅かに視線を逸らした。
「……すぐに、新しい物を仕立てさせよう」
そう言って、煽るように酒瓶を傾ける。反論も否定もしないということは、蒼玄にも思うところはあるようだった。
その横から、炎竜王が助け舟を出すように口を挟んだ。
「まぁ……お前のところには、昔から繋がりを求めて女が送られてきてたからな」
「おい」
援護しているようで、まったく援護になっていない言葉に、蒼玄は低く言い返した。
「……俺は望んでいなかった」
その一言だけは、はっきりと否定する。雪那が余計な誤解をしないように。その想いだけは隠さなかった。
雪那はそんな蒼玄の横顔を見て、思わず小さく笑った。
「ふふ、はい。分かってますよ」
蒼玄は珍しく不貞腐れた子供のような表情を浮かべていたが、雪那は本当に、何も引っかかることはなかった。
城から何人もの女性が逃げ出したことも、眠れない夜を、夜枷でやり過ごしていたのも知っている。
けれど、それは雪那と出会う前の事であって、今更過去は変えられない。それを口にするのは、不公平だ。
「それに、私は何も困っていませんので……」
「雪那様」
場を和ませようと雪那が遠慮がちに口を開いたが、蓮華がぴしゃりとその言葉を遮った。
その声音には、少しだけ怒りが滲んでいるようだった。まるで母親が幼子を叱るように。
「ご自分を大切になさってくださいませ。嫌なことは嫌と、口にして良いのです」
そして、蓮華は蒼玄に向き直る。
「冬竜王様。これは物の良し悪しではございません。番に対する気遣いの問題ですわ」
「あぁ、分かっている」
言外に、配慮が足りないと告げられた蒼玄は、静かに目を閉じ、頷いた。
蓮華の言葉が正しいと理解していたからだ。
そのやり取りを眺めながら、雪那は無意識に胸元へ手を添えていた。
そこにはもう王石は残っていない。
それでも、王石を埋め込まれていた場所へ、指先が自然と吸い寄せられる。
――ご自分を大切になさってくださいませ。
そんなこと、今まで一度も考えたことがなかった。自分の命など、誰かのために使われるものだと思っていた。
そうか、と唐突に理解する。
この命は、蒼玄が繋いでくれた命だ。
失われるはずだった雪那を、この人は何としてでも生かそうとしてくれた。だからこそ、分け与えられたこの命を大切にしたい。
雪那はゆっくりと蒼玄を見上げた。
「……冬竜王様」
「なんだ」
先ほどまで蓮華に叱られていたせいか、どこか居心地悪そうな声音だった。
そんな蒼玄へ、雪那は遠慮がちに微笑む。
「あの……私の服を、仕立ててもいいでしょうか」
「当然だ」
その返事を聞いた蓮華は、満足そうに微笑むと、ぱん、と一つ手を打った。
まるで空気を切り替える合図のように。
「そうと決まれば、夏の国まで待っていられませんわね。すぐにわたくしのお抱えの仕立て屋を呼びましょう」
「よ、よろしいのですか?」
瞳を輝かせながら嬉しそうに話し始める蓮華を前に、雪那は困ったように眉を下げ、視線を落ち着きなく彷徨わせる。
その狼狽ぶりに、炎竜王は肩を竦めて笑った。
「雪那。こうなった蓮華は止められん」
長年連れ添ってきた炎竜王だからこそ分かる。一度こうと決めた蓮華を止められないことは、伴侶である自分が誰よりよく知っている。
「やらせてやれ。蓮華は、ずっとお前のことを心配していたんだ」
炎竜王の優しい瞳が、蓮華に向けられる。甘い藍色の視線に、蓮華は少しだけ照れたように目を伏せた。
夏の国で、崔冥に操られた子供に襲われた後、雪那はほとんど休むこともなく冬の国へ戻ってしまった。
あの時からずっと。
どこか生きることを諦めているような儚い空気を纏う少女が気掛かりだった。
愛する伴侶である炎竜王を救ってくれた雪那の過去は、蓮華には計り知れない痛みを抱えていた。
目を離せば、そのまま消えてしまいそうな危うさを、この歳下の少女はずっと抱えていた。
だからこそ、この恩人には、何の憂いもなく心から笑える日々を送ってほしい。
蓮華には、その日々を少しだけ彩ることしか出来なくても。
それでも、その笑顔が一つでも増えるのなら、それで充分だった。




