王の矜持
夜気を含んだ冷たい風が、廊下を静かに吹き抜けていく。
冬竜王は何も言わないまま、雪那を片腕に抱えたまま歩いていた。硬い胸板に寄りかかる形になっているのに、不思議なくらい温もりを感じない。
まるで雪に触れているみたいだ、と雪那はぼんやり思った。長い黒髪が歩みに合わせて揺れるたび、淡い灯りを吸い込んで闇のように滲む。
やがて部屋へ辿り着くと、冬竜王は扉を開け、そのまま雪那を寝台へ下ろした。
柔らかな布団が沈む。
それだけ確認すると、冬竜王は踵を返す。その背に、雪那は咄嗟に手を伸ばした。
掴んだのは腕だった。衣越しではない、直接触れた肌から伝わる冷たさが、手から身体に駆け抜けていく。冬竜王がゆっくり振り返る。
「なんだ」
「……あの……」
雪那は指先を離せないまま、小さく息を呑んだ。言葉が喉に詰まる。これから口にしようとしている言葉で、胸の奥が潰れそうだった。
「……私のせいで、また侵入者が来るかもしれません」
昼間、街で出会った幼い妖魔と、先ほど氷の欠片に姿を変えた侵入者を思い出す。自分を“奇跡の巫女”と呼んだ声。
「分かっていたことだ」
冬竜王はあっさりと言った。迷いも、驚きもない。当然のことを確認するような声音だった。
「今日の昼も、街へ降りた時に、白狐さんと羽雲に助けてもらって……今も……」
攫われるようにここへ来てから、誰かに守られてばかりいる。春の国では、誰かに守ってもらったことなどなかった。なのに、返せるものが、何もない。
「私には、返せるものが何もありません。なのに、ここにいさせてくださいなんて……あまりにも、迷惑なお願いなんじゃないかって……」
絞り出すような声で告げた後、雪那は掴んでいた冬竜王の手を離し俯いた。静寂が落ちた。
冬竜王はしばらく雪那を見下ろしていたが、やがて静かに口を開く。
「お前は、俺が連れてきた。自分の所有物の責任を取るのは、飼い主の役目だ」
雪那が弾かれるように顔を上げる。あまりにも当然のように告げられて、言葉が出ない。冬竜王の紅い瞳に、今にも泣き出しそうな表情の雪那が映り込む。
「……それに、お前はまだ理解していないらしい。この俺に、侵入者が来る程度で危険だと? 随分と不敬なことを言う」
雪那は呆気に取られた。怒鳴られたわけではない。威圧されたわけでもない。それなのに、背筋が震える。
「お前一人抱えた程度で、俺が揺らぐと思うな」
あまりにも不遜で、傲慢な言葉だった。けれどその言葉には、根拠のない虚勢など一欠片もなかった。圧倒的な力を持つ者だけが口にできる断言。
雪那はぽかんとしたまま、その顔を見上げる。これが、“力ある者”の考え方。
利用され、怯え、幽閉されていた雪那には、まるで別世界の理屈だった。冬竜王はそんな雪那を見下ろしたまま、雪那の顔など容易く覆えてしまいそうな大きな手を、その頬へ触れさせた。
「分かったなら、余計なことを考えず休め」
「……はい」
これ以上食い下がるのは、彼の力を疑っているのと同義だ。不敬と言われても仕方ない。それは雪那も本意ではないので、静かに頷いた。
頬に当てた手をするりと外し、冬竜王は今度こそ部屋を出て行こうとした。
その時だった。冬竜王が扉を開けるより早く、勢いよく扉が開く。
「主様、こちらにいらっしゃいましたか!」
飛び込んできたのは白狐だった。肩で息をしている。いつも冷静な彼女らしくない姿に、雪那は目を見開いた。冬竜王は焦りが隠せない配下の姿に、僅かに眉を寄せる。
「何があった」
白狐は乱れた呼吸を押し殺すようにして告げる。
「夏の国の使者が、至急お目通り願いたいと……!」
その声音には、明らかな焦りが滲んでいた。
「夏の国にて、王の狂化が始まったと……!」
その瞬間。部屋の空気が、凍りついた。雪那は初めて見る冬竜王の表情に、息を止めた。それは、厄災と恐れられる王の顔だった。




