真夜中の侵入者
買い物から戻った後、雪那は与えられた部屋の寝台へ横になっていた。
身体は疲れを訴えているのに、眠れなかった。瞼を閉じても、昼間に見た景色ばかりが脳裏を巡る。賑やかな市場。笑い声。色鮮やかな果実。雪を踏み締める音。幼い姿の妖魔の、獲物を捉えようと細められた目。
知らないものばかりだった。雪那の人生には存在しなかったものばかりだった。
雪那は小さく息を吐き、そっと身を起こした。寝台脇へ畳まれていた毛皮の上着を羽織り、静かに寝台から降りる。
寝台の隅で丸くなっていた羽雲が、ぴくりと耳を動かし、顔を上げる。澄んだ青い瞳が、ジッと暗闇の中で雪那を見つめる。
「……ごめんね、起こしてしまったのね」
羽雲は答える代わりに大きな欠伸を一つすると、しなやかな動きで寝台から降りた。そして当然のように雪那の隣へ並ぶ。
「着いてきてくれるの?」
羽雲の尾がゆるく揺れた。扉を開けると、冷たい空気が頬を撫でた。
夜の城は静かだった。淡いランプの灯りだけが長い廊下をぼんやり照らしている。窓の外では、時折獣の鳴き声が響いた。
昼間の市場とはまるで違う。全ての音を吸収してしまったかのような、深く、静かな夜。
雪那は羽雲と並んで廊下を歩く。特に目的地はない。ただ、少しだけ、眠気が来るまで歩きたかった。
石造りの床へ靴音が小さく響く。
ふ、と。風もないのに、ランプの火が揺れた。羽雲の足が止まり、ぶわり、とその柔らかな全身の毛を逆立たせる。低い唸り声が喉の奥から漏れる。
雪那は息を呑み、羽雲の視線を追い、廊下の奥を見る。
灯りの届かない暗がり。そこから、ゆらりと人影が現れた。
黒い外套を深く被った男だった。外套の隙間から覗く手は鱗のようなもので覆われ、細長い爪が不気味に灯りを反射する。口元からは、蛇のように長い舌が覗いた。
雪那の身体が強張る。この城の者ではない。羽雲から立ち昇る殺気が、それを物語っていた。
男はそんな威嚇など意に介した様子もなく、足音一つ立てず、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「……やァ、奇跡の巫女」
「あなたは……?」
「こんな時間にお散歩とは、感心しないなァ」
ぞわり、と肌に鳥肌が立つ。羽雲の唸り声が低くなる。男がさらに一歩踏み込んだところで、ぴたりと止まった。互いの射程圏内。いつ飛び掛かってもおかしくない距離だった。
男の掌から、水が溢れ出した。ぶわり、と宙で渦を巻き、水が刃の形を成していく。男は雪那の反応を楽しむように笑う。
「なにが、目的ですか?」
「春の国がねェ、君を取り返してほしいってさァ」
雪那の喉がひゅっと鳴った。男が口元を歪めて笑みを深くする。
その言葉だけで、過去が蘇る。
暗い牢。血の匂い。焼ける肉。壊れた骨。息の出来ない場所。
雪那は無意識に後退っていた。嫌だ。戻りたくない。あそこへだけは。
男は真っ青な顔で距離を取ろうとする雪那を見て、喉の奥で笑った。
「いや、いや…!」
「何故?君の故郷は春の国だろう?それとも、暴虐非道と名高い冬竜王の生贄のままが良いって言うのかィ?」
その時だった。羽雲が、ぴたりと唸るのを止めた。凍てつくような静寂。その場の温度が、一瞬で落ちる。
かつ。静かな靴音が響く。雪那と羽雲の後ろ、廊下の奥。
闇の中から、一人の男が現れる。ただそこに立つだけで、空間そのものが、濃密な死の気配に塗り替えられる。
侵入者の妖魔の喉がひくりと鳴った。無意識のうちに一歩後ずさる。あれは、生物ではない。災厄そのものだ。
冬竜王が、静かに歩みを進め、雪那と羽雲の前に立つ。紅い瞳が侵入者を捉える。
「ほう。随分と安い駒を寄越したな」
「これはこれは。冬竜王自らお出迎えとは光栄だ」
冬竜王は、ただ、侵入者に目を向けているだけ。それだけで侵入者の額へ玉のような汗が浮かんだ。
「春の国も、随分必死だな。この女は俺が正当に貰い受けたものだが?」
「いなくなって初めて、その価値を理解したんだろうよ」
「我が城が、何故お前のような羽虫の侵入を許したと思う?」
侵入者の喉が鳴った。逃げろ。逃げろと、本能が叫んでいる。それでも、脚が縫い止められたように動かない。
「冬の国は弱肉強食だ。侵入を許された時点で、お前は“餌”だ」
「っ——!!」
侵入者が叫び、水刃を放つ。幾重もの刃が空気を裂き、冬竜王へ襲い掛かった。
——届かない。
冬竜王へ触れる寸前。見えない壁でもあるかのように、全ての水が凍りついた。
ぱき、ぱき、と乾いた音を立てながら空中で砕け散る。侵入者の顔から初めて笑みが消える。
「ば、かな——」
次の瞬間。冬竜王の姿が消えた。雪那にはその動きを、目で捉えることが出来なかった。
侵入者が目を見開く。気付いた時には、目の前にいた。大きな手が容赦なく侵入者の頭を掴む。
「ぎ——っ!?」
瞬間。凄まじい冷気が爆ぜた。侵入者の全身が一瞬で凍りつく。絶叫すら最後まで続かなかった。
青白い氷が全身を覆い、そのまま——砕け散る。氷が砕ける涼やかな音だけが廊下へ響いた。あとに残ったのは、青白い氷の欠片だけだった。
「……思ったより早かったな」
淡々とした声で、冬竜王は興味を失ったかのように氷の欠片を踏みつけて、振り返る。
冬竜王の射抜くような視線が、雪那を捉える。
「……お前は、春の国へ戻りたいか?」
試すような声だった。雪那は唇を噛む。その目に、心の奥底まで暴かれそうで。それでも、逸らしたく、なかった。
雪那は震える身体のまま、いつの間にか目の前に来ていた冬竜王の鮮烈なまでの紅い瞳を見つめ返す。
「……戻りたく、ありません」
「俺の目を見たまま、よく言えるものだ」
低い声が落ちる。いまだに本能的な恐怖は消えない。目の前に立つだけで芯から震えが止まらない。それでも。雪那は視線を逸らさなかった。薄い灰色の瞳が、真っ直ぐ紅を映す。
「ここに、いさせてください……」
震えながら。それでも、はっきりと。雪那が初めて願いを口にした。
しばらく沈黙が落ちた。やがて冬竜王が、小さく息を吐く。
「……そうか」
短い返答は、呆れたような、けれど、不思議と冷たさは感じない声だった。
その瞬間、張り詰めていた糸が切れる。雪那の身体がふらりと揺れ、そのまま地面にへたり込む。
「何をしている。立て」
「も、申し訳ありません。腰が、抜けて……先にお戻りください。落ち着いたら部屋に戻ります」
羽雲が心配そうに雪那に顔を寄せる。柔らかな毛に触れると、少しだけ震えが治まる。
「立てないなら運ぶ。行くぞ」
大きな腕が伸びてきて、雪那の腰を抱く。そのまま軽々と片腕で抱き上げられる。
「……え」
雪那が目を見開く。冬竜王は気にした様子もなく歩き出した。羽雲は後ろを嬉しそうに着いてくる。
雪那は呆然としたまま冬竜王を見上げた。まだ恐怖は抜けない。けれど、この腕の中は、不思議と息がしやすかった。春の国では、一度も感じたことのない安心だった。
無意識に、雪那の指が冬竜王の衣を掴む。冬竜王がそれを振り払わないことに、雪那は少しだけ安堵した。
冬竜王は何も言わない。ただ静かに、雪那を抱えたまま夜の廊下を歩いていた。




