夜明けの星
触れ合っていた唇が、名残惜しむようにゆっくりと離れていく。
少しでも動けば鼻先が触れ合いそうな距離のまま見つめ合うと、雪那は頬を赤く染めて俯いた。
蒼玄は再び顔を寄せ、今度は唇ではなく、額へそっと触れるだけの口づけを落とし、そのまま頬、鼻先、首筋に唇を這わせる。
まるで本当にそこに雪那がいることを、一つひとつ確かめるように。
「っ……ふふ、蒼玄様。くすぐったいです」
くすぐったさに雪那は肩を竦め、小さく身体を捩った。鈴を転がしたような柔らかな笑い声が部屋へ溶ける。
その笑顔を見て、蒼玄もまた、つられるように僅かに口角を上げた。
全てを終えて、ようやく本来の雪那らしい笑顔を浮かべられるようになったのだろう。
その事実だけで、胸の奥が静かに満たされていく。
「蒼玄様も、そういうお顔を、されるんですね」
雪那はその微笑みを見つめながら、嬉しそうに目を細めた。
「……どんな顔だ?」
「嬉しそうです」
蒼玄は一瞬だけ目を伏せ、それから諦めたように小さく笑った。
「……そう見えるか」
「はい」
雪那は迷いなく頷く。蒼玄は雪那の肩を抱き寄せ、そのまま首筋へ顔を埋めた。
「満たされているからな」
低く落とされたその一言に、雪那の胸が熱くなる。
この人は嘘をつかない。だから、その短い言葉だけで十分だった。
雪那は蒼玄の髪へ指を差し入れる。さらりと零れる滑らかな感触が心地良くて、何度も何度も梳くように撫でた。
「……蒼玄様」
「ん?」
「私、痛みが戻ったみたいなんです」
その言葉に、髪を撫でられる心地良さに浸っていた蒼玄は弾かれるように顔を上げ、雪那を見つめる。
「血の契りを交わすときに、気付きました」
「……痛かったか」
きっと、王石を春狼王に還したことで、雪那の身体を支配していた奇跡の力は、全て跡形もなく消え去った。
血の契りを交わした時に、首筋に蒼玄の牙が優しく肌に食い込んだ。あの瞬間に感じたのは、痛みだった。
雪那の世界が壊れた日に失われた痛みが、漸く帰ってきた。
「いいえ。やっと、私は人間に戻れた気がします」
「恐ろしくはないのか?」
「ふふ。痛みを感じられなかった頃に比べたら、この痛みさえ愛おしいです」
冬竜王に与えられるなら、痛みでさえ愛おしい。そんな自分に、思わず苦笑が溢れる。
「気をつけろ。暫くは慣れない感覚に戸惑うことも多いだろう」
「蒼玄様が、そばにいてくださるから、大丈夫です」
「俺がお前を傷付けるとは考えないのか?」
予想外の言葉に、雪那が目を瞬かせた後、冬竜王の頬に手をあて微笑む。
「蒼玄様になら、何をされても構いません」
「雪那、」
それは心からの言葉だった。蒼玄になら、例え殺されたって構わない。けれど。
「蒼玄様が、誰よりも私にお優しいのを、私は知っています。だから、これからも沢山触れてくださいね」
「……お前には敵わないな」
蒼玄の瞳の奥から、抑え込んでいた熱が静かに溶け出す。
「二人きりの時は、これからも蒼玄様とお呼びしても良いですか?」
「あぁ。お前に呼ばれるための名だからな」
そのまま再び首筋へ顔を寄せる。微かに触れる吐息が肌を擽り、雪那は肩を震わせた。
「……蒼玄様」
名前を呼ぶ。それだけで、蒼玄は心地良さそうに目を細めた。
しばらくその余韻へ浸るように静かに瞼を閉じていたが、やがてぽつりと呟く。
「……もう一度」
王として在ることを望まれる冬竜王ではなく、欲しいものを素直にねだる蒼玄という一人の男の声だった。
「蒼玄様」
優しく名前を紡ぐ。その一言だけで、蒼玄の表情が緩んだ。
番に名を呼ばれることが、これほどまで心を満たすものだとは思わなかった。
どれほど長い時を生きていても、何物にも変え難い甘美な響きだった。
「雪那。俺の夜明け。これからも、俺に夜の終わりを」
夜明け前の東の空に輝く星。蒼玄にとって、雪那は長い夜を終わらせる夜明けの星そのものだった。
「はい。ずっと一緒に、朝を迎えましょうね」
蒼玄は雪那を抱き寄せたまま寝台へ横たわる。雪那も自然とその腕の中へ身体を預ける。
触れて、抱き締めて、体温が溶け合って、お互いの境界さえ曖昧になってしまったかのようだった。
そして二人は寄り添ったまま静かに瞼を閉じ、同じ夜を、同じ朝を迎えるために眠りへ落ちていった。




