帰還
眼下に広がる春の国を見渡しながら、秋叡王は春風に白髭をなびかせ、深く息を吐いた。
「さて……儂は、もうしばらくこの国へ残るとしよう」
その言葉に、雪那は弾かれるように顔を上げて秋叡王を見つめる。
「秋叡王様が……ですか?」
「あぁ。王石が失われた今、新たな王が選ばれるまでには少しばかり時間がかかるじゃろう。その間、国が混乱せぬよう手を貸してやらねばならん」
隣に立つ暁杜は、まるで秋叡王の言葉を予想していたかのように肩を竦める。
「陛下ももうお年ですからねぇ。お一人では心配です。私も残ります」
「余計なことを言わんでいい。最初からお前は残ってもらうつもりじゃった」
軽い口調とは裏腹に、その声音には敬愛する秋叡王への心配と決意が滲んでいた。
雪那は迷わず一歩前へ出る。
「でしたら、私も――」
「いや」
秋叡王は穏やかに雪那の肩を掴み、言葉を遮った。
「お前さんは、一度冬の国へ戻った方がえぇ」
「ですが……」
「血の契りというものは、そう簡単に身体へ馴染むものではない。命を繋ぎ止めるほどの魔力を受け入れたのじゃ。今は無理をする時ではない」
雪那は唇を噛む。春狼王が命を懸けて守ろうとした国だ。崔冥が歪みながらも守ろうとした国だ。
だからこそ、春の国の人間として、自分も最後まで見届けたかった。
そんな雪那の心を見透かしたように、秋叡王は優しく笑う。
「大丈夫じゃ。儂も長いこと王をしてきた。このくらいの後始末なら慣れたものじゃ」
「秋叡王様……」
揺るぎない王としての自負と自信が、深い皺と共に秋叡王の顔に刻まれている。
「任せてくれるか?」
その一言で、雪那の胸に込み上げていた迷いが静かに解けていく。
これ以上食い下がることは、秋叡王を信じていないと言うことと同じだ。雪那は小さく息を吸い込み、深く頭を下げた。
「……春の国を、よろしくお願いいたします」
「うむ。任された」
秋叡王は満足そうに頷く。雪那は肩に乗る手から伝わる温もりに、全てを託した。
「陛下のことは心配なさらずに!雪那さんはゆっくり休まれたらいいですよ」
「お前は春の国を研究したいだけじゃろう」
「それは勿論。二百年もの間、妖魔の出入りがなかった国ですからね!」
暁杜が瞳を輝かせて眼下に広がる春の国を見渡す。研究者としての血が騒いでいるのが伝わってくるようだった。秋叡王は呆れたように苦笑いを溢す。
「次に会う頃には、きっとこの国は変わっておる」
その言葉を胸へ刻みながら、雪那はもう一度だけ春の国を振り返った。
長い冬を終えたばかりのような、柔らかな春の陽射し。
春狼王が命を懸けて守ろうとした景色。崔冥が最後まで手放せなかった国。
どうか、この国に生きる人々が、今度こそ自分たちの手で未来を掴めますように。
心の中だけでそっと祈り、一行は春の国を後にした。
春の暖かな空気は、国境を越えるごとに少しずつ薄れていく。
やがて頬を撫でる風は鋭さを帯び、白く染まった山々が遠くに見え始めた。
雪は静かに降り積もり、世界を白銀へ染めている。天を駆ける馬車の中でも、吐く息は白く、空気は肺が痛くなるほど冷たい。
それなのに、不思議と嫌ではなかった。
雪那は思わず小さく笑う。初めてこの国へ来た時は、凍える寒さに身体を縮めていた。
けれど今は違う。この冷気も、この静寂も、この果てしなく続く銀世界も。
どこか心が落ち着く。
視界の先には、雪に覆われた冬の王城が静かに佇んでいた。
白銀の世界の中心にそびえるその姿は、冷たさの中にも気高さを宿し、冬竜王の治める国そのものだった。
城門がゆっくりと開かれ、馬車から冬竜王と雪那が降り立つ。
出迎えた臣下たちは、一斉に冬竜王の前に膝をついた。
「陛下。お帰りなさいませ」
「お待ちしておりました」
冬竜王の隣に並ぶ視線が、何かに吸い寄せられるように雪那へ向く。
誰もが息を呑んだ。
白銀だった髪は夜を思わせる濡羽色へ変わり、その身体からは冬竜王と同質の魔力が静かに溢れている。
その意味を理解出来ぬ者は、この城には一人もいなかった。
「……これは」
「まさか……」
臣下たちは次々に顔を上げ、小さなどよめきが広がる。
冬竜王はそれを一瞥すると、雪那の腰へ自然に手を回した。
「氷雅。説明しておけ」
「承知しました」
冬竜王の呼びかけに、後ろの馬車から出てきた氷雅が一歩前へ出る。
冬竜王は雪那を当然のように伴い、そのまま城内へ歩き出した。
その後ろ姿を、臣下たちは静かに見送るのだった。




