春を託して
身体に満ちた冬竜王の魔力が、深く馴染んでいく。
「身体は?問題ないか?」
「はい、大丈夫です」
冬竜王に腰を支えられながら立ち上がる。指先一つ動かせなかった身体が、今は驚くほどに軽くなっていた。
立ち上がった拍子に、濡羽色に変化した髪が肩から滑り落ちる。見慣れない自身の髪色に、思わず毛先を見つめる。
「……本当に、消えてしまったんですね」
「惜しいか?」
「いいえ。もう、必要ありませんから。この髪色には、まだ慣れませんけど」
雪那の人生を狂わせたもの。奇跡の証明。失ってしまえば、自分には何も無いと思っていた。
けれど、雪那に寄り添うように立つ冬竜王は、それでも、那を求めてくれた。だから本当に、惜しくない。
「綺麗だ。その髪も、お前によく似合う」
「……あ、ありがとう、ございます」
雪那の腰まである黒髪を一房掬い取った冬竜王は、そのまま恭しく口付ける。
あまりにも優しく髪へ口付けられ、雪那は思わず目を逸らす。顔が熱を帯びるのが、自分でも分かる。
傍で見守っていた白狐たちが、微笑ましく見守っているのが伝わり、何だか余計に気恥ずかしい。
ごほん、と一つ大きな咳払いをした秋叡王が、静かに杖を掲げる。
「さて……眠っておる者たちも、目を覚ます頃じゃな」
杖の先から柔らかな光が広がり、地下空洞の床を這うように流れていく。倒れていた春の国の王と武官たちを包み込むと、その瞼がゆっくりと震えた。
「……っ」
「な、何が起きた……!」
春の国の王は飛び起きるように身を起こし、辺りを見回した。春狼王がいたはずの場所を通り過ぎたその視線が、雪那へ向いた瞬間、目を大きく見開く。
「お、お前……その髪……!」
治癒術式を示す白銀の髪は、もうどこにもなかった。夜を溶かしたような濡羽色の髪が肩を滑り落ちている。
「奇跡の力を失ったのか!?奇跡の巫女がいなくなれば、我が国の財政はどうなる!!」
最初に口をついて出たのは、民でも国でもなく、自分の利益だった。
地下空洞の空気が凍り付く。
冬竜王の紅い瞳に殺気が宿る。その一歩が踏み出されるより早く、小さな手がそっと腕へ触れ、引き止める。
「……雪那」
「大丈夫です」
雪那はにこりと微笑み、冬竜王の腕から離れ、自分の足で春の国の王の前まで歩いていく。その背中を、冬竜王は何も言わず見送った。
「陛下。この国に、もう奇跡は必要ありません」
「黙れ!!」
春の国の王は、顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「結界もない!崔冥もいない!奇跡の巫女もいない!そんな国をどうやって治めろと言う!!」
雪那はその怒号を真正面から受け止める。崔冥が置いた、お飾りの王。春狼王や、冬竜王、雪那が知る王たちのようにはなれなかった王。
「この国に必要なのは、正しい王です」
一拍置いて、静かに言い切る。ほんの少しの哀れみを込めて。
「あなたではなく」
春の国の王もまた、雪那と同じように利用されていたのかもしれない。けれど、春の国に必要なのは、雪那の目の前で、どうにか責任から逃れようとしている男ではない。
その一言が、地下空洞の空気を変えた。春の国の王は呆然と雪那を見つめる。
周囲の武官たちも動かなかった。
崔冥の真実を知り、結界の礎を知った。春狼王が王石を壊させた理由。雪那が自分の命を懸けて王石を破壊した理由。それが一体、誰のためであるか、武官達は理解していた。
だから誰一人として、雪那を止めようとはしなかった。
それが答えだった。
「くく……」
静寂の中、冬竜王の小さな笑い声が響く。口元へ手を添えながら、肩を揺らしている。
「お前の言葉は正しい。愚かな王より、そこな人間達の方がそれを理解している」
その声はどこまでも誇らしかった。雪那が自分で春の国の王に立ち向かい、それが認められたことが、冬竜王にとっては何よりの喜びだった。
やり取りを黙って見ていた秋叡王が、呆れたように肩をすくめ、一歩前へ出る。
「お前さんは所詮、崔冥という男の傀儡に過ぎんかったということじゃ」
王であること、王としての存在意義を、一度でも考えられていたら。
「やがて新たな王石が生まれ、新たな春の国の王が選ばれる。王としての矜持が、少しでも残っておるのなら、それまでこの国を支えることじゃな」
「ふ、ふざけるな!!春の国の王は私だ!!」
王は口端から泡を飛ばしながら、現実を受け入れられないように半狂乱状態で後ろを振り返る。
「妖魔ごときが!!お前たち!!この私が侮辱されているのだぞ!!立ち向かえ!!」
しかし、誰一人、動かなかった。武官たちは静かに俯いたまま、その命令には従わなかった。
「な、何故だ……!私が王だ!!」
その場にへたり込んで、春の国の王は理解出来ないとでも言うように髪をかき乱す。
「この男は、眠らせたままの方が良かったんじゃないか」
「そうもいくまい。武官たちはもう理解しておる。ここで起きたことは、彼らの口から国中へ伝わる。民は王を見ておる。真実はやがて広まる。それでよい」
武官たちは蹲る春の国の王を押し除けるようにして、雪那の前へ進み出た。
先頭の武官が、その場に膝をつき、深く頭を下げる。
「奇跡の巫女様……いえ。雪那様」
後に続くように次々と武官達が雪那の前に膝をつく。
「この国を救っていただき、本当にありがとうございました」
「次は、我らがこの国のために出来ることを致します。新たな王と共に」
「春狼王様が願われたような、弱き者が泣かなくていい国にします」
その姿を見つめながら、雪那は胸の奥が熱くなる。
崔冥の歪んだ願いも、春狼王が眠っていた二百年も、全部が無駄だったわけではない。ちゃんと誰かへ届いた。
一人一人がそう思えたら、きっと、二人の願いは叶うはずだ。人間たちの手によって。
「……はい」
雪那は静かに頷いた。
崔冥が歪めてしまった願い。それでも守ろうとした春の国。
今度こそ、この国は人の手で歩き出す。




