奇跡の終わり
最後の桜の花びらが陽光の中へ溶けていく。春狼王のいた場所にはもう何も残っていなかった。
吹き抜ける風だけが地下空洞を巡り、雪那はその場所から目を逸らせずにいた。
胸の奥がじくりと痛む。けれど不思議と後悔は無かった。春狼王は笑っていた。
崔冥の待つ場所へ向かうことを心から望み、その終わりを受け入れていた。
パキン――。
胸の奥で、再び王石が砕ける音が響いた。
春狼王の王石が砕け散った瞬間、その欠片から生まれた雪那の王石もまた役目を終える。
胸元から零れた白銀の光は細かな粒となって宙へ溶け、身体を支えていた力までも少しずつ奪っていった。
雪那の膝から力が抜ける。立っていられない。指先は冷たく痺れ、視界がゆっくり霞んでいく。
ふらりと身体が傾く。
トン、と優しく抱き留められる。見なくても、こんな壊れ物に触れるように抱き締めてくれる人は、一人しかいなかった。
冬竜王の広い胸へ引き寄せられる。冷たい肌が、懐かしくて、自然と頬を寄せる。聞こえる鼓動は力強く、温かい。
「雪那」
耳元へ落ちる声は掠れていた。その声に乞われるように、雪那は重たい瞼を押し上げる。目の前には深紅の双眸があった。
「冬、竜王様……」
声が上手く出ない。息をするだけで苦しい。花びらが指の隙間から落ちるように、命が流れ出ていくのを感じる。
残された時間がどれほど僅かなのか、雪那は嫌というほど理解出来ていた。
雪那の白銀の髪が、毛先から濡羽色に変化していく。王石と共に、治癒術式が雪那の中から消滅する。
「……これで、全部終わりですね」
冬竜王は、雪那の胸元から零れ落ちる白銀の光を、命そのもののように少しずつ薄れていく光を、グッと唇を噛み締めて見つめる。
秋叡王も、暁杜も、氷雅も白狐も、誰も近寄れなかった。何も言わず、ただ二人を見つめる。
冬竜王の腕の中で、雪那はその深紅の瞳を見上げる。良かった。最後に、ほんの僅か言葉を交わす時間が残っている。
その顔を見た瞬間、胸が押し潰されるように締め付けられる。自分が死ぬことよりも、この人をこんな顔にしてしまったことの方が辛かった。
「冬竜王様」
雪那は最後の力を振り絞って、小さく微笑む。春狼王の最後の笑顔が脳裏を過った。あんな風に、笑えたら良いと思った。
「私……幸せでした」
冬竜王の瞳が大きく揺れる。別れの言葉など、聞きたくないとでも言うように、強く抱き締められる。
「っ……雪那」
振り絞るような、縋るような声だった。
雪那はあの日の約束を思い出す。いつか訪れる最後の瞬間に見つめるのは、この深紅の双眸が良いと思ったことも。
「まだ、まだだ。雪那」
あぁ。泣かないで。
雪那がいないと眠れないと言ってくれる人。終わらない夜を、一人で彷徨っていたこの人を思うと、死にたくないと思ってしまう。
けれど、雪那はもう生きられない。後悔はしていない。自分で選んだ。自分で歩いた。
それでも。
もっと一緒にいたかった。
もっと隣を歩きたかった。
もっと色んな景色を見たかった。
その願いだけが、胸の奥に静かに残っている。
「……帰ってくると、言ったはずだ」
「はい。最後は……あなたの、そばに……」
雪那が震える手を伸ばして、冷たい頬を撫でると、冬竜王はその手に自分の手を重ねた。
体温が抜け落ちたような雪那の手よりも、更に冷たい手が、終わりを受け入れようとする雪那を引き戻そうと、指を絡める。
「血の契りを交わせ」
雪那は瞬きをした。
そばで最後の時間を見守っていた秋叡王たちが、動揺したように身体を揺らすのが視界の端で見えた。
「……今、何て……?」
「俺と共に、生きてくれ」
その声は痛いほど必死だった。冬竜王がこれほど弱々しい声を出すのを雪那は知らない。
「血の契りを」
霞がかかる思考の中で、夏の国で蓮華から聞いた話が脳裏を過る。
愛しい者同士が結ぶ契約。寿命を分け合い、時を分け合い、同じ終わりへ歩くための契約。
雪那は浅い呼吸を繰り返した。
長い時を生きる冬竜王の隣にいられる唯一の方法。
一緒に、生きたい。けれど。雪那は縋りつきそうになる心を必死に押さえつけた。
「……だめです」
「雪那」
「私には……もう何もありません」
雪那の治癒術式も、王石も消失してしまった。もう誰も救えない。奇跡の巫女は、もういない。もう冬竜王の傍にいても、何も出来ない。
こんな、何も持たない自分が、最後の最後に冬竜王を縛り付けたくはなかった。
「お前がいればいい」
死を受け入れようとした。それなのに。冬竜王は、雪那の意思を簡単に揺るがせてしまう。
「生きてくれ。お前がいないなら、俺はこの長い命を授かった意味がない」
雪那の心を、簡単に揺るがせてしまう。
「雪那。俺を選べ」
「……私で、いいんですか」
手を取りたい。
この人の隣で、朝も、夕も、春夏秋冬を生きていきたい。




