春に還る
雪那は吹き荒れる桜吹雪の中を真っ直ぐ歩いた。
足元では白い光が脈打ち、春狼王の胸元に埋め込まれた王石もまた呼応するように明滅している。空気は軋み、地下空洞そのものが悲鳴を上げているようだった。
春狼王は、目の前に立った雪那の揺らぐ灰色の瞳を見て、一瞬その白皙の美貌を罪悪感に染めた。
「酷なことを頼んですまない」
その言葉に、雪那は小さく首を横に振った。泣きそうな顔のまま、それでも笑おうとする。
「謝らないでください」
「……崔冥が、すまなかった。お前の人生を狂わせたことは、私にも責任がある」
崔冥のしたことを、春狼王は決して正当化しない。主である自分にも責任があるのだと、静かに受け止めていた。
崔冥に壊された人生。奪われた痛み。失われた時間。理由を知ったとしても、許せるはずがない。
けれど。
「……私は、崔冥様を許せません」
桜の花びらが頬を掠めて、舞い上がる。
「でも、もう良いんです。私は、救われましたから」
春狼王の瞳が柔らかく細められる。震える手が持ち上がり、そっと雪那の頬に触れた。
愛し子に触れるように、真っ白な指先が優しく頬を撫でる。
「……そうか。お前が、生きたいと思えるようになって良かった」
ピシッ――。
乾いた音が響く。春狼王の指先に細い亀裂が走った。
まるで陶器のように、白い亀裂は腕へ広がり、少しずつ身体を蝕んでいく。
終わりが近い。
雪那はひび割れたその手に、自分の手を重ねた。温もりが消えてしまわないように。
そしてもう片方の手を、春狼王の胸元で脈打つ王石へ伸ばす。
眩しいほどの光を放つ王石は、まるで生き物のように鼓動を続けていた。
「本当に、よろしいんですか」
壊したくない。助けたい。ただそれだけを願う瞳だった。春狼王の王石を壊した後の、自分の残された時間のことなど、欠片も考えていない。
春狼王はその視線を受け止め、そして一瞬だけ冬竜王を見る。
深紅の瞳と灰色の瞳が交わる。
何が失われるのか。何が残るのか。言葉を交わさずとも、二人とも知っていた。
「あぁ。崔冥が待っているからな」
その言葉に、不思議と寂しさは無かった。
長い長い旅路の終着点へ向かう者の穏やかな声だった。
「どうかお前の人生に、春の国に、幸多からんことを」
王として、最後に授ける言祝ぎだった。
雪那の瞳から、最後の涙が零れ落ちる。雫は頬を伝い、光の中へ消えていった。
その瞬間。
雪那の足元に白銀の紋様が咲く。
幾重にも重なる花弁のような術式が広がり、無数の光が流星のように巡り始めた。
命を救うためだけに在るはずの奇跡。
誰かを生かすための力。その光が今だけは、終わりを与えるために輝いていた。
白銀の花は地下空洞を埋め尽くし、春狼王の足元まで咲き広がる。
光の花弁が王石を包み込む。
春狼王はその光景を見つめ、鮮やかに微笑んだ。二百年前の春よりも、咲き誇る桜よりも。
ずっと美しいものを見るように。
「あぁ……なんて、美しい」
眩い白銀の光が地下空洞を満たす。
雪那の手のひらの下、硬い王石に亀裂が走るのを感じる。
眩い光が弾けた。
地下空洞を埋め尽くすほどの白銀の奔流が溢れ出し、誰もが思わず目を閉じる。
吹き荒れていた桜吹雪が、その光へ導かれるように舞い上がった。
パキン――。
瑠璃が割れるような、澄み切った音と共に、王石が砕けた。
二百年もの間、春狼王を縛り続けた楔が、ようやく終わりを迎える。
春狼王は自らの命の終焉を感じた。苦しみも、痛みもない。ただ、安らかな倦怠感だけが、瞼を閉ざさせる。
ただ、長い長い冬が終わるような安堵だけがあった。
胸元から溢れ出した光は少しずつその身体を包み込み、輪郭を曖昧にしていく。
ひび割れた指先が透け、白い腕が光へ溶ける。真っ白な髪が春風に攫われるように舞い上がる。
雪那は、最後まで目を開けて、その終わりを見守る。
消えていく。ようやく救えたと思った人が。ようやく目覚めた人が。
けれど春狼王の表情はどこまでも穏やかだった。
その灰色の瞳が最後に映したのは、雪那だった。
「雪那、ありがとう」
春の陽射しよりも優しい声だった。
それが最後だった。春狼王の身体がふっと崩れる。指先から解けるように、桜の花びらへと変わる。
白銀の光に包まれたその姿は、やがて無数の桜の花びらとなって春風へ溶けていった。
二百年。
誰よりも長い冬を越えた王は、最後まで春の王だった。
花びらは天井から差し込む陽光の中をゆっくり舞い上がる。
誰もが、その旅立ちを見送っていた。
やがて最後の一枚が光の中へ消えた時、地下空洞に残ったのは、温かな春風だけだった。




