古の誓約
崔冥の身体を包み込んだ桜の花びらは、春風に攫われるように舞い上がり、やがて跡形もなく消えていった。
崔冥の姿が完全に消え、二百年という長すぎた執着の終わりを、その場にいた誰もが見届けた。
春狼王は花びらが消えた空間を見つめていた。その横顔に涙は無かった。
ただ、長い旅路を終えた者のような静かな疲労だけが滲んでいる。
「な、何をした……」
震える声だった。ずっと言葉を発することも出来ず武官達に震えていた春の国の王が、春狼王を指差す。
「崔冥を殺したな!!」
悲鳴のような叫びが地下空洞に響いた。
「何故だ!!何故あやつを殺した!!崔冥がおらねば私はどうすれば良い!!」
その言葉に、冬竜王は深く溜め息を吐く。人間の浅ましさ、欲深さが凝縮されたような男だった。
「犠牲がなんだ!!それで春の国を守れていたのならば、問題ないではないか!!」
秋叡王は白く豊かな髭を撫で付ける。
「結界は!!国境は!!妖魔共はどうする!!春の国はどうなるのだ!!」
春狼王は、自分の代わりに王座に座る人間の言葉を聞いていた。王は荒い息を吐きながら叫ぶ。
「誰が私を守るのだ!!」
地下空洞に響き渡った言葉は、人間の醜さを露呈しているようだった。
灰色の瞳が、春の国の王を映す。
そこに怒りは無かった。ただ、深い疲労にも似た静かな悲しみだけがあった。
誰もが、若き日の崔冥のように高潔な魂でいられない。人間の欲深さは、春狼王も知っている。今更、失望もない。
「……まだ、やることが残っている」
責めることもなく、嘆くこともなく、春狼王は静かに目を伏せる。
ただ、崔冥が守りたかったものを、春狼王は知っている。春狼王自身と、そしてもう一つ。
その時だった。
バキッ――と。
何かが軋む音が響く。雪那は反射的に顔を上げた。
春狼王の足元から桜の花びらが暴風のような勢いで巻き上がり、地下空洞そのものが震え始め、天井から石片が落ちる。
「な!なんだ!!おい、お前達、私を守れ!!」
春の国の王が怯えた様に交差した腕で頭を抱え、地面に蹲る。
異常を察知した秋叡王が春狼王に駆け寄り、その襟元を掴んで引き開く。
「……やはりか」
「二百年は、長すぎたようです」
冬竜王は、吹き荒れる暴風から守るように雪那の前に立つ。
春狼王の胸元で、淡い光が脈打っている。まるで心臓のように。
「王石は……王の器に宿る。春狼王、お前の身体はもう……」
「えぇ。今の私では、最早この力を支えきれません」
空気が軋む。王石の力が溢れ出しているのが雪那には分かる。春狼王の王石に引き寄せられるように、雪那の王石が再び熱を帯びる。
「雪那」
冬竜王の肩越しに、灰色の瞳が真っ直ぐ雪那を見つめる。その声は変わらず穏やかだった。
「私の王石を壊してくれ。このままでは、私の王石が、暴走し、やがて春の国を呑み込む」
「……え?」
雪那は息を呑む。吹き荒れる桜の花びらが、地下空洞を埋め尽くしていく。
「崔冥が守り続けた春の国を、私自身の手で壊してしまう前に、終わらせてくれ」
埋め込まれた王石が、呼び掛けに応えるようにズクンと脈打つ。
何を言われているのか、理解出来なかった。いや、理解したくなかった。
荒れ狂う風が、雪那の銀髪を巻き上げる。
「なぜ、私なんですか……?」
その問いに、春狼王は申し訳なさそうに眉を寄せる。
「出来ないんだ。秋叡王様にも、冬竜王にも」
雪那は思わず冬竜王の背中と、秋叡王を見つめる。雪那を導いてくれた二人の王が、否定しないということが、答えだった。
「どうして……」
嫌だ。嫌だ。折角目覚められたのに。救いたくて、ここに来たのに。王石を壊してしまったら、春狼王も消えてしまう。
雪那が小さく首を横に振ると、春狼王が重たい口を開いた。
「古の呪いじゃ」
黄昏色の瞳が、凄まじい力の流れを何とか身体の内に押し留めている春狼王を見つめる。
「理性こそ強者の証。王が王を喰らえば、世界はいずれ滅ぶ」
吹き荒れる花びらの中で、老王の声だけが不思議なほどよく響いた。
「故に王石を授かる時、王は誓約を受ける。王は、他の王を害せぬ」
だから秋叡王も、冬竜王も、春狼王の王石を壊すことは出来ない。




