春を待つ男
崩れた天井から差し込む陽光の中を、桜の花びらが静かに舞う。
地下空洞に立ち込める重たい沈黙を破ったのは、秋叡王だった。
「春狼王。此度の始末、お前がつけよ」
王から王へ。その声音には、四王の中でも最古参の一柱としての威厳が滲んでいた。
「二百年眠ろうが、春の国の王はお前じゃ。臣下の責は王が負うもの。ならば最後はお前の手で終わらせよ」
春狼王はしばらく目を伏せたまま動かなかったが、やがて二人の王へ深く一礼する。
「終焉の機を賜りしこと、心より御礼申し上げる」
春風が吹き抜ける。舞い上がった花びらが王達の間を流れた。
「春の国の王として、最後の務めを果たしましょう」
春の国の真の王として、春狼王が果たすべき使命はただ一つ。そのために、春狼王は二百年の長き眠りから目覚めた。
春狼王はゆっくりと振り返る。
「崔冥」
名を呼ばれた瞬間、床に手をついて這いつくばっていた崔冥の肩が大きく震えた。
「よく一人で国を守った」
その言葉に耐え切れなくなったように、崔冥は崩れ落ちるように春狼王の前へ傅いた。
「我が君……!我が君……私は……私は……!」
何を言えば良いのか分からなかった。
謝罪も懺悔も言い訳も、形を成さない。何を言ったところで、崔冥は結局間違えたのだ。春狼王は震える崔冥の肩に手を置く。
「一つだけ聞かせろ。何故、私の王石を分けた。結界を維持するだけなら、分ける必要は無かったはずだ」
その問いに、雪那は胸元に埋め込まれ、熱を失った王石の欠片に触れる。
「私は……いつか貴方を王石から解き放って差し上げたかった」
崔冥の、本当の望み。
「優しい貴方が、貴方のままでいられるように、したかった……」
きっと、それだけのために、崔冥は数多の子供たちの命を奪った。主君が、望まない願いだと分かっていたとしても。
「人間に移せるのならば、いつか貴方が目覚めた時に、王石を移してしまいたかった」
雪那は息を呑んだ。ようやく理解する。
何故崔冥があれほど王石に執着したのか。何故、あれほど多くの子供達を犠牲にしてまで適合者を探し続けたのか。
春狼王を救いたかったのだ。
その方法がどれほど歪んでいたとしても。
春狼王は小さく笑う。
「馬鹿だな。崔冥」
優しい声だった。
「王石が無ければ、私はお前の王ではいられないというのに」
崔冥の肩が大きく震えた。深く窪んだ眼窩の奥から、涙が止めどなく流れ落ちる。
「……それでも、それでも私は……貴方にお仕えしました」
崔冥が地面に額を擦り付けるように、深く頭を垂れる。
春狼王は別れを惜しむように静かに目を伏せた。そして告げる。
「来い、崔冥」
崔冥が弾かれるように顔を上げる。その姿が、春狼王には二百年前と変わらぬ精悍な顔立ちの青年に見えた。
崔冥は、子供のように涙を流しながら、首を上げる。
「一人にはしない。私もすぐに行こう」
その言葉を聞いた瞬間、崔冥の中で張り詰めていた何かが音を立てて崩れた。
迷子の子供のような声が零れる。
「……私のしてきたことは……全て、間違いだったのでしょうか……」
「あぁ。お前のしてきたことは、間違いだ」
春狼王は迷うことなく言い放つ。崔冥は振り絞るように落涙した。
「お前は、願いのために多くを殺した。雪那のような何の罪もない子供達を犠牲にし、その人生を弄んだ。春の国を守りたいという妄執が、お前を変えた」
崔冥は目を閉じる。その言葉を深く受け入れた。冬竜王が、あの日結界を壊さなければ、春の国は歪んだ崔冥の願いによって、永遠に封鎖された結界の中で停滞していた。
雪那が生きたいと望むこともなかった。
「だが」
二百年前と変わらぬ輝きを秘めた灰色の瞳が、真っ直ぐに崔冥を見ていた。
「私だけは、お前を肯定する」
二百年間、誰にも理解されなかった。誰にも認められなかった。誰にも許されなかった。
その全てが、春狼王の一言で終わりを迎える。
崔冥は二百年振りに、心からの笑みを浮かべた。二百年の全てから解放され、ただ終わりを待つ。
春狼王の指先が僅かに揺れる。
「……終わりの先で、待っていろ。崔冥」
「はい、我が君」
ストン。
あまりにも静かな音だった。
崔冥の首が床へ落ちる。
雪那は息を呑んだ。
あまりにも唐突で、あまりにもあっけない終わりだった。
止める間もなかった。
春狼王は静かに屈み込み、床へ転がった崔冥の首を抱き上げる。その姿はまるで眠る子供を抱くように優しく、二百年の孤独を抱き締めるようだった。
そして、そっとその額へ口付ける。
温かな春風が吹き抜ける。
舞い上がった桜の花びらが崔冥の身体を包み込み、その姿は淡い光と共に少しずつ崩れていく。花びらは空へ溶けるように舞い上がり、やがて何も残らなかった。
地下空洞には、ただ静かな春風だけが吹いていた。




