春風
意識が浮上する。
深い水の底から引き上げられるような感覚だった。
遠くで誰かが呼んでいる。何度も。何度も。必死に。
ーー雪那
重い瞼が震える。
身体の奥で暴れていた熱が消え、その代わり何か大切なものが零れ落ちていくような感覚だけが残っていた。
「雪那!!」
聞き慣れた声だった。
低くて、不器用で。けれど誰よりも安心する声。
雪那はゆっくりと目を開く。
最初に見えたのは、深紅の双眸だった。
「冬竜王……さま……」
掠れた声が零れた瞬間だった。雪那の身体が強い力で抱き寄せられる。
「あぁ。そうだ」
呻くような声が頭上から落ちる。
「何故羽雲を傍から離した。何故もっと早く呼ばなかった」
その声に含まれている感情が、怒りだけだはないと気付き、雪那は呆然と瞬きを繰り返す。
覗き込む瞳が、揺れていた。
「……ごめんなさい」
「腕輪が外されていなかったら、合図も来なかった。勇敢と無謀は違うんだ。突っ走りすぎるな」
「……はい」
崔冥に腕輪を壊された瞬間、その異変は冬竜王達にも伝わったらしい。
冬竜王が呼び戻してくれなかったら、雪那は確かに共鳴によって呑み込まれていたかもしれない。
けれど雪那の身体を焼いていたあの熱は、もうなかった。
内側から引き裂かれるようだった痛みも、春狼王へ引き寄せられていた感覚も、嘘のように消えている。
その様子を見ていた崔冥が目を見開く。
「何故だ……」
淀んだ黒い瞳に、明らかな動揺が見える。
「何故邪魔ばかりする!!厄災の王よ!!」
狂乱の叫びが地下空洞へ響き渡った。崔冥の憎悪に染まった瞳が冬竜王を射抜く。
「私はただ春の国を守りたかっただけだ!!」
その叫びに呼応するように風が吹いた。
光の届かなかった地下空洞。その天井には巨大な穴が空いている。
冬竜王が力任せに突き破ったのだろう。空から降り注ぐ陽光が、地下を白く照らしていた。
その時だった。
遠くから慌ただしい足音が響く。次の瞬間、重い扉が勢いよく開いた。
「崔冥!!崔冥!!」
大勢の武官達を引き連れ、春の国の王が豪奢な衣を翻しながら、転がるように駆け込んでくる。
「国境が囲まれた!!冬の国だけではない!!夏の国もだ!!妖魔たちが犇めいている!!」
王は顔面蒼白だった。息を切らしながら崔冥の枯れ木のような身体へ縋り付く。
「どうする!!どうすれば良い!!」
あまりにも情けない姿だった。一国の主人としての威厳もなく、ただ恐怖に怯える男だった。
崔冥はそんな王を冷ややかに見下ろす。
そこには、春狼王へ捧げていたような忠誠も敬意もない。ただ冷たい侮蔑だけがあった。
「陛下、お下がりください」
「ひっ…!!と、冬竜王!!」
そこでようやく春の国の王は、冬竜王の存在に気付き、顔を引き攣らせながら情けない悲鳴を上げる。
「何故ここにいる!?城に穴を空けたのはそなたか!?」
雪那を抱いたまま、燃えたぎる怒りを瞳に宿した冬竜王が、五月蝿く喚く春の国の王に視線を向ける。
ただそれだけで、春の国の王は息を飲み、言葉を失った。
春の国の王の後ろに控えていた武官達もその威圧に一斉に後退る。
「おい、陛下を下がらせろ。結界だ、早く結界を張り直せば……」
崔冥が衣に縋り付く春の国の王を武官に預け、再び雪那を捉えようと、手を翳した瞬間だった。
頭上から、石片がパラパラと落ちてくる。天井の巨大な穴から、陽光を背後に複数の影が降りてくる。
最初に着地したのは氷雅だった。猛禽類のような剛翼で風を切り、軽やかに地面に降りる。
続いて、羽雲に乗った白狐と暁杜が。
そして最後に、風切り音も立てずに秋叡王が地下空洞に降り立つ。
「……やれやれ。飛び出すのが早過ぎるのう」
秋叡王は周囲を見渡し、腰を抜かす春の国の王と武官達、崔冥を捉え、最後に雪那を抱く冬竜王を黄昏色の瞳に映す。
「遅い」
「陛下が早すぎるんですよぉ」
「雪那様!ご無事ですか!!」
見慣れた秋叡王たちの姿に、雪那はようやく冬竜王の腕の中で微笑み、頷いた。
その様子を見ていた崔冥の顔色が変わる。冬竜王一人だけでも、崔冥にとっては絶望的な状況だった。
秋の国の王と、側近達まで加われば、雪那に手を出す隙などありはしない。下手に動けば崔冥の首など容易く飛ぶと、溢れ出るその威容だけで充分察することが出来た。
この状況を打破するために、と崔冥の黒く淀んだ瞳が素早く動く瞬間。
「何故だ。何故王石の共鳴が止まった……このままでは……」
カタン。
静かな音が響く。
崔冥が、その音を辿るように、凍り付いたように振り返る。
白い棺。
二百年の沈黙を破り、その縁に、青白い指が掛かっていた。
地下空洞が静まり返る。
誰も声を出せない。
ただ一人、崔冥だけが震える声で呟いた。
「……我が君……?」
その声に応えるように、温かな春風が地下へ吹き込んだ。




