夢の終わり
桜吹雪がゆっくりと薄れていく。
二百年前の景色が、花びらの向こうへ溶けるように消え、雪那は再び巨大な桜の木の下へ立っていた。
春風が吹く。
瞼に置かれていた手が離れ、雪那は目を開ける。ぼやけた視界を晴らすように瞬きを繰り返す。
狂ったように花びらを降らせる桜の下で、雪那は言葉を失っていた。
崔冥は最初から狂っていたわけではなかった。
誰よりも国を、弱者を、人間を守りたかった。
誰よりも春狼王を守りたかった。
その願いが、二百年という長い時間の中で歪んでしまっただけだった。
「崔冥様は……」
掠れた声が零れる。その先が続かない。責めればいいのか、憎めばいいのか、雪那には分からなかった。
「崔冥はただ、守りたいだけだった」
始まりは、本当にささやかで、純粋な願い。
「人間達と……私を」
雪那が顔を上げると、春狼王は困ったように笑っていた。
「崔冥は、優しい男だった。伸ばされた手を、ひたすら掴んで、助けて歩くような男だった」
その声には懐かしさが滲んでいた。黒曜石のように輝く瞳で、自分を真っ直ぐに見つめる崔冥を、春狼王は思い出す。
「不器用で、頑固で、融通も利かなかったがな」
あの瞳が、翳っていくのを、春狼王はただ夢の中から見ていることしか出来なかった。
「……その純粋な願いが、歪んでしまった」
春狼王から、笑みが消える。優しく包み込んでいた春風がぴたりと止まる。
「崔冥のしたことは許されない。願いのために、多くの命を奪い、多くの未来を壊した」
雪那は黙って聞いていた。崔冥が犠牲にしてきたのは、彼が、春狼王を礎にしてまで守りたいと願ったはずの命だった。
「だが、私だけは、あいつを責められない」
灰色の瞳が遠くを見る。まるで二百年前の景色を見つめるように。
「あいつが狂う原因を作ったのは、私だからだ」
長い沈黙が落ちた。春狼王は目を閉じる。目を閉じれば、我が君、と春狼王を呼ぶ崔冥の声が聞こえてくる。
「さあ、終わりにしよう。夢から醒める時間だ。私もそろそろ、崔冥の顔が見たくなった」
雪那は息を呑む。
春陽のような晴れやかな声には、崔冥に対する恨みも憎しみも感じられなかった。
二百年という、長すぎた別れを終わらせようとしているだけだった。
「雪那。お前を待っている者達がいる。目覚めの時だ」
その瞬間、澄み渡る青空を裂くように、雷鳴のような声が響く。
――雪那!!
祈るような声だった。必死に、雪那の名前を呼んでいる。何度も、何度も、名を呼ぶ声に、雪那はふいに泣きたくなった。
帰りたい。
「呼ばれているな」
「……はい。私も、帰らねばなりません」
「では行こう」
その声は雪那がずっと聞きたかった声だった。眠りの底から引き上げてくれる声。
今すぐ会いたいと思った。
春狼王はそんな雪那を見て満足そうに目を細める。
「ああ、それともう一つ」
「はい」
大きな手が、再び雪那の瞼を覆う。
「冬竜王の夜を終わらせてくれて、ありがとう」
春風が吹く。
桜が舞う。
その言葉を最後に、雪那の姿は花びらへ溶けるように消えていった。
――雪那!!
その声に導かれるように。
夢の終わりへと落ちていった。




