美しい国
崔冥は元々、春狼王に仕える人間だった。
二百年前の春の国は、まだ人間だけの国ではなかった。妖魔も獣人も人間も同じ土地で暮らし、同じ空の下で生きていた。
春狼王は良き王だった。
強大な力を持ちながらも驕らず、人間にも妖魔にも獣人にも等しく手を差し伸べる王だった。そして崔冥もまた、その傍らで王を支える忠実な臣下だった。
けれど崔冥には、消えることのない妖魔への憎しみがあった。
幼い頃、家族は妖魔に殺された。優しい両親と、まだ幼かった兄弟達の血の匂いも、泣き叫ぶ声も、壊れた家も、全て鮮明に覚えていた。
人間の姿を取ろうと、言葉を話そうと、笑おうと、崔冥にとって妖魔は妖魔だった。その本質は獣であり、理性など仮初のものに過ぎない。
けれど、春狼王だけは違った。
圧倒的な力を持ちながら、獣としての本能に呑まれることなく、誰よりも良い王であろうとしていた。
だから仕えた。だから信じた。
けれど、いくら春狼王が良き王であっても、崔冥がどれだけ策を練ろうとも、妖魔も獣人も簡単に人を殺した。
救った村が襲われる。助けた子供が死ぬ。泣く者が消えることはなかった。
うんざりするような毎日を、ただ必死に変えたいと願った。
そして、崔冥が何より耐えられなかったのは、敬愛する春狼王自身が変わり始めていたことだった。
春狼王は、歴代の王に比べて、王石に引き寄せられやすかった。
王石は土地と繋がる。土地の感情と繋がる。春の国に満ちる憎しみも、悲しみも、怒りも、全て王石を通して春狼王へ流れ込む。
王石から力を得れば得るほど、春狼王は国の感情に呑み込まれ、本能へ近付いていく。
玉座に座る春狼王の横顔を見ながら、崔冥は恐怖していた。
このままでは、この聡明で優しい王は、いつか呑み込まれてしまう。憎しみに。悲しみに。人ならざる本能に。
だから。
崔冥は春狼王の前へ跪いた。
広い王の間に、静寂が満ちていた。灯火だけが揺れ、長い影を床へ落としている。
「我が君」
玉座の上から、春狼王が静かに見下ろす。その瞳が、変わってしまう前に。
「どうした」
春狼王は、崔冥が何を覚悟したのかを、全て見透しているようだった。
崔冥は顔を上げた。その美しく磨き上げられた黒曜石のような瞳には迷いがなかった。
「この国を、人間だけの国にします。弱き者の最後の砦として。出て行くことも、入ってくることも拒みません」
妖魔である春狼王の前で、その言葉を紡ぐ意味。
「けれど、春の国に逃げ込んだ人間は、何があっても守ります」
春狼王は黙って聞いていた。崔冥の声だけが静かに王の間に響き、落ちていく。
「だから、そのための礎になってください。我が君。あなたが、あなたでなくなってしまう前に」
本当は、春の国を守ることよりも、最後の一言の方が崔冥にとっては大事なことのように聞こえた。
それを口に出さないまま、長い沈黙の後、春狼王は一つだけ問い掛ける。
「それがお前の作りたい国か」
「はい。私はもう彼らを許せない」
妖魔を、獣人を、人ならざる者達を。
「弱き者が蹂躙される自由など、私はいりません」
「そうか。いつか、その願いがお前を狂わせることになってもか?」
春狼王は、まるで崔冥のこの先の未来を知っているようだった。
「はい。それでも私は、春の国を守りたいのです」
春狼王は、崔冥の黒く真っ直ぐな瞳を見つめる。この瞳に見つめられ、我が君と呼ばれることが、春狼王は好きだった。
「ならばやれ」
崔冥の目が初めて揺れる。
「お前が作りたい国は、きっと美しい」
この顔を、春狼王はずっと覚えていようと思った。
そして、春狼王が眠った日から、春の国は変わった。
人間だけの国になり、春狼王の王石を核にした結界が張られた。人間だけが行き来できる、人ではないものを決して受け入れない、人間のための結界が。
そして崔冥は二百年を生きた。
守り続けた、春狼王の愛した国を。
守り続けて、守り続けて。
気付けば、何を守りたかったのかさえ分からなくなっていた。
敬愛した王を結界の核にし、飾り物のような王を玉座へ座らせ、数え切れない子供達を犠牲にした。
それでも止まれなかった。
長い年月が、守りたいという願いを、いつしか妄執へと変えていた。




