桜の夢
春風が吹いていた。
ひらり。ひらり。
無数の桜の花びらが空から舞い落ちる。どこまでも続く桜色の景色だった。
地面は花びらで埋め尽くされ、風が吹くたび薄紅の波が揺れる。空は澄み切った青に染まり、温かな陽射しが降り注いでいる。
雪那は鼻腔をくすぐる甘い香りに誘われるように、ゆっくりと目を開いた。
「……ここは……?」
確か自分は春の国へ来て、地下へ降りて、春狼王を見つけて、それから――
胸元へ手を当てる。
意識を失う直前に、雪那を襲った痛みはない。身体を縛り付けていた黒い鎖もない。崔冥も、地下空洞もない。
代わりに、桜だけが広がっていた。
「私……」
「起きたか」
ふいに落ちてきた声に、雪那は身体を起こす。
そこに立っていたのは、一人の男だった。真っ白な髪が春風に揺れている。
白皙の美貌、静かにこちらを見つめる灰色の瞳。どこか冬竜王と似た、人ではない美しさを纏った男。
雪那は息を呑む。目の前に立つ男は、先程まで白い棺の中で眠っていたはずだ。
「春狼王……様……?」
茫然と呟かれた名前に、春狼王は小さく頷いた。
雪那は立ち上がろうとして、そこでようやく自分が桜の花びらの上に横たわっていたことに気付く。
「ここは……どこですか……?」
困惑したまま周囲を見回したが、ただ桜の花びらが舞い落ちるだけで、何もない。
「ここは私の夢の中だ」
風が吹く。花びらが風を形をして二人の間を流れていく。
「王石同士が共鳴したせいで、どうやらお前を呼んでしまったらしい」
夢。王石。共鳴。理解が追いつかない。ただ春狼王を見上げることしか出来ない雪那へ、手を差し出した。
「立てるか?」
雪那は恐る恐るその大きな手を取る。その手は温かく、生きている者の温度だった。
引き上げられた拍子に身体へ積もっていた花びらが舞い上がる。
手を引かれるまま、しばらく無言で歩く。桜の木々が続く道を、春狼王は迷いなく歩みを進める。
雪那は隣を歩きながら、ずっと気になっていた疑問を小さく尋ねた。
「私……死んだんですか……?」
「いや、まだ死んでない。危ない状況ではあるがな」
その美貌は真っ直ぐな雪那の問いに、苦笑いを溢した。雪那の魂が春狼王の夢の中にいるなら、雪那の身体は今、どうなっているのだろう。
やがて一本の巨大な桜の木の前で足を止めた。大人が何人手を繋いでも囲めないほど太い幹。空を覆い尽くす枝。狂ったように花びらを降らせ続ける桜。
その巨木を前に、雪那は空を仰ぐように顔を上げた。
春狼王が雪那の手を離し、巨木を背に向かい合う。
「さて、雪那。私の王石を埋め込まれた娘よ。何か聞きたいことがあるのだろう」
雪那は拳を握った。聞きたいことは山ほどある。この悲劇の始まりを知らなければ、雪那は崔冥を止めることは出来ない。
「崔冥様は、本当に春の国を守りたくて、あなた様を犠牲にしたんですか?……なぜ、受け入れたんですか?」
雪那の問いに、沈黙が落ちる。
春狼王は舞い落ちる花びら越しに、静かに雪那を見つめ返す。やがて、その美しい顔が僅かに歪む。
「崔冥は多くを間違えた。だが、あいつが春の国を守りたいと言った言葉に嘘はない」
「ですが、春狼王様を犠牲にして、何の罪もない数多くの子供達まで犠牲になりました。教えてください。何があったのか……!」
「……見せてやろう」
春狼王の手が伸び、そっと雪那の瞼の上に重なる。
強い春風が吹く。風に巻き込まれるように花びらが渦を巻く。
「二百年前、何があったか」
桜吹雪が雪那を包み込み、花びらが視界を埋め尽くし、世界が白く染まる。
頭がくらくらするような甘い香りに、意識が沈み込む。
遠く。
遠く。
そして、二百年前の春の国が姿を現した。




