傀儡
雪那の呼吸は治癒術式の発動で乱れていた。
白い棺の中で眠る春狼王を見つめながら、何度も治癒術式を発動する。
けれど反応はない。身体は生きている。魂も消えていない。それなのに目覚めない。
雪那には分かっていた。胸に埋め込まれた王石を壊せば、この人は死ぬ。
雪那の王石と同じだ。王石はただ身体に埋め込まれているだけではない。命そのものと深く絡み合っている。
助けたい。春狼王を救いたい。殺したくない。このままでは利用され続ける。焦りで胸が締め付けられる。
その様子を黙って眺めていた崔冥が、静かに口を開いた。
「さて」
ゆっくりと、地面に座り込み崔冥を見上げる雪那に、一歩近付く。
雪那は反射的に後退る。だが背中には白い棺があり、逃げ場などどこにもなかった。
崔冥の視線が雪那の腕へ落ちる。
「忌々しい腕輪だ。王石との繋がりを遮断しているのだろう」
雪那が息を呑んだ瞬間だった。
崔冥は鎖で縛られた腕を掴み、銀細工の施された腕輪を乱暴に引き抜く。ぱきん、と金具が弾け飛び、銀の欠片が石畳へ散った。
その瞬間――
ドクンッ
胸に埋め込まれた王石が激しく脈打った。雪那の身体が大きく震える。
心臓を直接握り潰されるような痛み。熱した鉄の塊を直接流し込まれたように、激しい熱が雪那の中で暴れる。
呼ばれている。本来あるべき場所へ。春狼王の王石へ。
還れ。
還れ。
そう囁かれているようだった。
「っ……あ……!」
胸元を掻き毟るように押さえる。呼吸が出来ない。身体の内側から何かが引き抜かれていく。
まだだ。まだ返せない。まだ何も終わっていない。
春狼王を、救えていない。
「お前は所詮、私の傀儡に過ぎん」
崔冥は冷ややかにそう言って、折れた腕輪を無造作に後方へ放り投げる。
銀の腕輪が石畳を転がり、乾いた音を響かせながら闇の中へ消えていった。
ぐわん、と視界が歪む。
足元が消えたような錯覚。その場に崩れ落ちる寸前、崔冥の手が伸びた。
骨ばった指が雪那の顔を掴み、無理やり上へ向かせる。
「いや……やめて……」
意識が沈んでいく。懐かしい感覚だった。
何も考えられなくなる。何も感じなくなる。ただ命令だけに従う人形へ戻っていく。
「私は……もう……戻りたく、ない……」
崔冥は僅かに目を細めた。
「戻る?違う」
その声が遠い。水の底から聞こえてくるようだった。
「お前はただ、元の場所へ還るだけだ」
視界が暗くなる。春狼王の姿も。白い棺も。地下空洞も。何もかもが闇へ沈んでいく。
「何も苦しむことはない。何も悲しむこともない。それが、お前にとって一番の幸福だっただろう」
意識が落ちる。
深く。
深く。
もう抗えない。
雪那の瞼が閉じかけた、その時だった。
――お前のために。
遠くで、誰かの声が聞こえた気がした。
沈みかけた意識の底へ、微かな熱が落ちる。
――俺はいつだって、ここにいる。
何度も雪那を救い上げてくれた声だった。
完全に闇へ沈みかけていた意識が、ほんの僅かに引き留められる。
閉じかけた灰色の瞳から、一筋の涙が静かに零れ落ちた。
ついに意識を手放した雪那の身体から力が抜けたことを確認し、崔冥はその身体を白い棺の横に並べる。
腕輪が壊された以上、春狼王と雪那の王石の共鳴は、もう止まらない。
「……我が君、もう少しです」
白い棺に横たわる春狼王を見つめて、崔冥はポツリと言葉を落とした。




