守る価値
雪那は、眠るように横たわる白皙の美貌の春狼王を見下ろした。
「……この方に、何をしたんですか」
掠れた声が地下空洞へ落ちる。
崔冥は白い棺へ歩み寄り、その縁へ骨ばった指先を置いた。その仕草には、僅かな敬意が含まれていた気がした。
「春狼王は、春の国を愛していた」
深く窪んだ眼窩の奥で黒い瞳が静かに棺の中の男を見下ろす。
「だから礎になってもらっただけだ。もっとも今はただ眠っているだけだ。冬竜王が結界を壊したせいでな」
眠る春狼王から、雪那へ向けられた視線には、露骨な不快感が滲んでいた。
「お前が連れ去られた時は腑が煮え繰り返る思いだった。王の愚かな判断で、折角育てた唯一の王石適合者を失うところだったのだからな」
王を王とも思っていないその不遜な物言いに、雪那は顔を上げる。
「……唯一?」
その言葉に引っ掛かるものがあった。崔冥は馬鹿にするように鼻で笑う。
「王石を埋め込まれたのは自分だけだと?」
「……まさか」
「何人の子供が王石に適合出来ずに死んだと思っている。お前は偶々運が良かっただけだ」
雪那の身体から血の気が引いていく。視界が揺れた。自分だけではなかった。
王石を埋め込まれた子供がいた。あの痛みに耐えられなかった子供達がいた。誰にも知られず死んでいった子供達がいた。
「春狼王の王石を一つに戻し、新たな結界を張り直す。だからお前が必要だった」
雪那は言葉を失った。雪那だけではない、この男は、一体今まで何人の人間を犠牲にしてきたのか。
「あなたは……」
胸の奥で何かが軋む。怒りなのか悲しみなのか、自分でも分からない。
「なぜ、そこまでして結界を維持するんですか」
「なぜ?決まっているだろう」
静かな声だった。あまりにも静かで、その言葉に含まれる狂気に、身体を震える。
「春の国を守るためだ」
それだけだった。迷いも、躊躇も、罪悪感もない。まるで当たり前のことを語るように。
理解出来ない。
春狼王を犠牲にしたことを、犠牲だとすら思っていない。
雪那は静かに眠る春狼王を見る。そして崔冥を見る。
分からなかった。どうしてそんなことが出来るのか。どうして平然としていられるのか。どうして人の命をこんなにも軽く扱えるのか。
何も分からない。
けれど、一つだけ確かなことがある。
「違います」
「何がだ」
雪那は真っ直ぐに崔冥を見据えた。春の国にいた頃は、崔冥を瞳に映すだけでも恐ろしくて、いつも顔を伏せていた。
そんな雪那を、変えてくれた人がいる。
「私は、外の世界を見ました。人間も妖魔も関係ありません。皆、それぞれ意思を持って生きています。泣いて、笑って、悩んで、誰かを大切に思って生きているんです」
いつも心配してくれた白狐の顔が、炎竜王の豪快な笑顔が、蓮華が心配してくれた声が、羽雲の青い瞳が、秋叡王が握ってくれた温かい手が、暁杜の軽やかな笑顔が脳裏に鮮やかに浮かぶ。
雪那は拳を握り締める。声が強くなる。
大切な人たちに、恥じない自分でありたい。
「世界は広くて、自由で、美しい。生きる価値があります。誰かの人生を犠牲にしてまで守る国なんて、間違っています。そんな国に、守る価値なんてありません」
静寂が落ちる。崔冥は何も言わない。ただ雪那を見ていた。
長い沈黙の後、ふっと乾いた笑いが漏れる。
「……何も知らず、何も考えず、役割だけを果たしていた頃のお前は、とても美しかったのに」
黒く窪んだ瞳に、一瞬何か炎のような光が灯る。きっとそれは、怒りだ。
「結局お前も与えられた景色に酔っているだけだ。自由など、強者が弱者へ見せる幻想だ」
そこには理解も共感もない。あるのは強い怒りと、失望だけだった。
「結界がなければ、その自由の中で、どれだけの人間が死んでいったと思う」
その気迫に、呑まれる。
「妖魔に襲われ、獣人に喰われ、誰にも守られずに死んでいった弱者達が、残された者達が流した涙が、一体どれだけあると思う」
狂気と、妄執に囚われた瞳が、一瞬だけ何かを思い出すように輝きを増す。
崔冥を、ここまで突き動かした理由が、きっとそこにある。
「だが安心しろ」
ふっと、その声色が落ち着きを取り戻す。垣間見えた輝きが、黒い渦に呑み込まれて、見えなくなる。
枯れ枝のような指先が雪那の胸を指す。
「再び、我が傀儡に戻れ。雪那」
雪那の背筋を冷たいものが走る。目の前の男は本気だった。
この男は自分とは全く違う。何かが決定的に壊れている。
春狼王の静かな寝顔を見る。胸に埋め込まれた王石を見る。
そして崔冥を見る。
この男は止まらない。誰かが止めなければ。
きっとこれからも同じことを繰り返す。
その確信だけが、雪那の胸に重く沈んでいた。




