最高傑作
崔冥は、雪那を頭の先から足の先まで、品定めをするように見まわした。その視線は蛇が獲物へ絡みつくようで、雪那は無意識に拳を握り締める。
「随分と、大切にされたようだな、雪那。痛みも感じず、傷も残らぬ身体は、あの王にとっては、さぞ都合が良かっただろう」
その言葉に含まれた下卑た響きに、雪那は眉を顰める。
「あの方は、私に生きる理由をくださいました」
王の間から音が消えた。崔冥は何も言わない。けれど、その視線は人を見るものではなかった。
崔冥がゆらりと動く。一歩。また一歩。枯れ木のような身体が雪那との距離を縮める。
「そうか。生きる理由か」
感情のない声だった。雪那の瞳が、あの頃と違い、生に満ちていると分かってなお、崔冥の感情が揺れることはない。
「可哀想に。そんなものはお前には不要だ。知ってしまえば、絶望は大きくなるだけだというのに」
雪那の胸に怒りが込み上げた。恐怖よりも先に。悔しさよりも先に。長い年月、何も言えなかった少女の奥底から、燃えるような感情が湧き上がる。
「違います。私をそうしたのは、あなたです」
王の間にいる全員が、息を呑む。
春の国を出て、こんな僅かな時間で、あの全てを諦めて言いなりになっていた少女が、崔冥に真っ向から対立している。
黒い瞳が細められる。怒りではない。長い年月をかけて作り上げた作品が、自分の意図しない形へ変質してしまったことへの不快感。その感情だけが、黒々とした瞳に僅かに滲んだ。
「あぁ……ずっとそのままでいれば良かったものを」
ため息と一緒に吐き出された言葉に、雪那は歯を食い縛る。胸の奥で震えていた恐怖が、今は怒りへ変わっていた。
「私は、あなたの物ではありません」
「そうか」
ぽつりと呟く。その声音は静かだった。静か過ぎて、不気味なほどに。
「ならば、まずはその夢から醒ましてやろう」
崔冥が掲げた手を振り下ろす。
瞬間、雪那の足元へ無数の術式が広がった。黒い光が立ち昇り、床を埋め尽くす呪文陣から闇のような鎖が一斉に飛び出す。
何度も雪那を拘束したもの。何度も雪那を苦しめたもの。意識を奪い、従わせ、絶望を植え付けたもの。
だが雪那は動かなかった。
身体が金色の光に包まれる。腕輪から溢れ出した光が雪那を守る。秋叡王が施した結界。黒い鎖が触れた瞬間、全て弾き飛ばされた。
王の間が騒然となる。術師たちが動揺したように顔を見合わせる。春の国で最も優れた術師。崔冥の術が届かなかった。
「……ほう」
崔冥だけが静かだった。興味深そうに雪那を見る。怒りも焦りもない。ただ観察している。
雪那は崔冥を真正面から見据えた。
「教えてください。銀狼の王はどこですか」
雪那の言葉に、王座に座る王の肩がびくりと跳ねた。怯えたように。隠し事を暴かれた人間のように。
だが崔冥は薄く笑うだけだった。
「それを知ってどうする」
「助けます」
雪那は迷わない。全ての元凶は、ここにある。
「この国に囚われているのであれば救い出します。そして王石も返します。私はもう、誰かの犠牲の上で生きたくありません」
崔冥は静かに聞いていた。そして小さく頷く。
「なるほど。だからお前は甘いのだ」
そう言って、崔冥は雪那から視線を外した。まるで話は終わったと言わんばかりに。
目の前の少女に、これ以上価値はないと言わんばかりに。
次の瞬間だった。
ガツン――
鈍い衝撃が雪那の後頭部を襲う。視界が揺れ、身体が前へ崩れる。
何が起きたのか理解するより早く、床へ倒れ込んだ。
術ではない。いつの間にか背後へ回っていた武官たちだった。
容赦なく背中へ膝が食い込み、全体重を乗せて押さえ込まれる。肺から空気が押し出され、口から苦しげな息が漏れた。
同時に、じゃらりと思い金属音が響く。
無数の呪詛が刻み込まれた鎖が雪那の身体へ巻き付いた。腕も脚も胴も。逃げ場を奪うように。純粋な暴力だった。術ではない。力だった。
雪那は歯を食い縛り、それでも顔を上げた。悔しい。崔冥の狡猾さを、理解していたはずなのに。
「力を得れば、私に勝てると思ったか。お前を作り上げたのは誰だ」
出来の悪い子供を叱りつけるような声。
「お前の身体も。術も。王石も。全て私が与えたものだ」
雪那の瞳が揺れる。崔冥は立ち止まることなく、術師たちの間をすり抜け、王の間から出て行こうとする。
「全て言わないと分からないような馬鹿になってしまったようだな」
最後に、興味を失ったように片手を振った。
「まあ良い。どうせ最初からそのつもりだった。地下へ連れて行け」
武官たちが鎖を引く。雪那の身体が無理やり立たされる。王の間の視線が突き刺さる。
それでも雪那は崔冥から目を逸らさなかった。




