絶望の象徴
術師たちの輪が、ゆっくりと割れた。その奥から、一人の老人が姿を現す。
雪那の身体が、凍りついたように動きを止めた。見間違えるはずがない。忘れられるはずがない。
雪那の身体に痛みを与え、王石を埋め込み、治癒術を叩き込み、幾度となく死の淵へ追いやった男。
崔冥。
雪那の人生を壊した張本人だった。
骨ばった身体は痩せ細り、黄ばんだ皮膚が骨に張り付いている。秋叡王のような大樹の重厚さはない。枯れ木の枝を無理やり人の形へ押し固めたような姿だった。
何よりも目が異様だった。深く窪んだ眼窩の奥で、黒い水が淀むような瞳だけがぎらりと光っている。
雪那の全身が総毛立った。逃げたい。身体の奥底が悲鳴を上げる。
震える身体を意思の力で抑え込み、雪那は唇を噛み締めた。ここで逃げるわけにはいかない。
「羽雲」
小さく名を呼ぶ。羽雲は動かなかった。青空を閉じ込めたような瞳が雪那を見つめている。
置いて行けと言われていることを理解しているのだ。それでも離れようとしない。
「お願い。行って」
羽雲が抵抗するように低く喉を鳴らすが、雪那は首を横に振った。
これ以上、巻き込みたくなかった。ここまで休むことなく雪那を運んできた羽雲は疲弊しているはずだ。今の雪那では羽雲を守れない。
しばらく雪那を見つめていた羽雲は、やがて諦めたように翼を広げた。白い巨体がふわりと浮かび上がる。
最後まで雪那から目を離さないまま、天井の穴から空へ消えていった。
王の間に残されたのは雪那一人。
崔冥はその様子を眺めながら、ゆっくりと口元を歪めた。
「ようやく戻ってきたか」
雪那は拳を握り締める。優しげ声音。その言葉の裏に何もないことを雪那は知っている。
「……お久しぶりです。崔冥様」
「あの獣はなんだ?お前の愛玩動物か?随分と躾がなっていないようだな」
「いいえ。羽雲は冬竜王様の眷属。私をここまで連れて来てくれただけです」
虫のような黒々とした瞳が、雪那を映す。たったそれだけのことなのに、背中に冷や汗が流れる。
雪那は周囲を見回した。取り囲む術師たち、剣を構える武官たち、王座の上で震える王、そして成り行きを見守るしかない高官たち。
全員の視線が雪那へ向けられていた。
「……私を、ずっと連れ戻そうとしていましたね」
「当然だろう。我が国の奇跡の巫女が、野蛮な王に突然攫われたのだからな」
崔冥は優しく微笑んだ。その瞳の奥に、雪那を思いやる気持ちなど見つけられない。
雪那の喉が乾く。意識しないと、声が引き攣りそうだ。
他の誰の視線も気にならない。他の誰も怖くない。
けれど、この男だけは。崔冥だけは。
雪那の身体が本能的に恐怖していた。
逃げろ。
逃げろ。
逃げろ。
身体の奥で、かつての自分が叫んでいる。
「ですが、その代わりに春の国は安寧を得たはずです。何故、私を帰らせようと?」
「あの厄災の王に攫われたんだ。お前が、どのように扱われたか、あの場にいた誰もが最悪を想像した。皆、お前を案じていたのだ」
「崔冥様。おやめください。私が、そのような言葉を信じると?」
崔冥の口端が歪む。雪那は長い時間を崔冥に踏み躙られて過ごした。
崔冥が、ただ純粋にその身を案じて、取り返そうとしていたなどと言われても、雪那が信じるはずがなかった。
「では何故戻ってきた?なぁ、雪那。我が最高傑作。奇跡をその身に宿した娘。哀れにも、厄災の王に心を囚われたか?」
粘っこく、耳に纏わりつくような声で、謳うように紡がれる言葉。
「私は、ここに戦いにきました」
その言葉は確かに王の間へ響いていた。術師たちが騒めき、武官たちが顔を見合わせる。王でさえも困惑したように雪那を見下ろしていた。
崔冥だけが何も言わない。
黒く淀んだ瞳が雪那を見つめている。長い沈黙の後、崔冥はふっと笑った。
「戦いにきた?お前は何を言っているんだ」
子供の戯言を聞いたのように嘲笑う。堪えきれなかったように肩が揺れる。
「……随分と、面白いことを言うようになったものだ」
崔冥は細い骨ばった指先で顎を撫でる。その声色に、初めて苛立ちが含まれたことに気付き、周囲の術者たちが身じろいだ。




