決意の先に
部屋へ戻った後も、雪那は不思議なほど落ち着いていた。
窓から差し込む月明かりが床を白く照らしている。
つい先程まで冬竜王と空を飛んでいたはずなのに、今は静かな夜だけが部屋を満たしていた。
泣いて、迷って、やっと答えを出すことが出来た。
「……冬竜王様」
呼び掛けると、冬竜王が視線を向けた。たった一週間。けれど、随分と長い間会えていなかった気がする。
紅い双眸が雪那を映す。その視線を受け止めながら、雪那はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私、春の国へ行きます」
その瞬間、部屋の空気が凍り付いた。
冬竜王を包んでいた穏やかな気配が消える。吹雪の前触れのような冷気が広がり、月明かりさえ冷たく見えた。
「……今、何と言った」
「春の国へ、行きます」
同じ言葉を繰り返した雪那を、紅い瞳が鋭く捉える。そこに宿るのは、これまで向けられたことのないほど強い怒りだった。
「俺がいない間に出した結論が、それか」
「はい。春の国に、囚われている方がいます。ずっと、私よりも長い時間を、犠牲にしている方がいます」
冬竜王が立ち上がる。
黒髪が揺れ、圧倒的な威圧が部屋を満たした。それでも雪那は目を逸らさない。
立ち塞がるように、冬竜王は雪那の前に歩み寄る。
「俺が春の国を滅ぼせばいい。出ていく前に行ったはずだ。俺が全て終わらせる。お前が行く必要はない」
怒りの奥に、かすかな焦りが滲んでいるのを、雪那は気付いていた。
「行けば、死にに行くようなものだと、分かっているだろう」
「はい」
冬竜王がグッと奥歯を噛み締める。何を言っても、雪那の意思が変わらないことに苛立ったのではない。
死ぬと分かってて行く、その言葉が、許せなかった。
「何故お前が背負う、お前は何も悪くないだろう」
「それでも、誰かがやらなければいけません。春の国がしたことを、誰かが終わらせなければいけません」
知ってしまった以上、知らなかったことには出来ない。
それに何より、春の国のしたことを、冬竜王に押し付けるわけにはいかなかった。
「だから、私が行きます。あなたに全て壊してもらったら、私は胸を張って、あなたの隣に立てなくなってしまいます」
そして、少しだけ微笑んだ。
「……冬竜王様。春の国で、全てを諦めて生きていた私を、あなたが連れ出してくれました」
冬竜王の前髪が、ピクリと揺れる。春の国で、死んだように生きていた日々。死にたくて泣いた日々が、遠い昔のよう。
「あの閉ざされた部屋で、全てを諦めて、ただ世界を眺めているのは、楽でした」
人に命令され、ただ人形のように生きた日々だった。けれど。
「けれど、外の世界の人々は皆、自分の力で立っていました。誰もが、自分の足で生きていました。私も、そんな風に生きたいと思いました」
雪那の手が、固く握り締められた冬竜王の拳に触れる。
「世界を、自由を、生きることを。あなたが教えてくれました」
だから。
「私はもう逃げません」
沈黙が落ちる。冬竜王は何も言わない。
止めることはできる。閉じ込めることもできる。だが、それは雪那から自由を奪うことになる。自分が嫌悪する春の国と、何も変わらなくなる。
長い沈黙の後、冬竜王は目を閉じた。何かを必死に堪えるように。
やがて、低く掠れた声が落ちる。
「……行くな、雪那」
その一言に、雪那の胸が締め付けられる。
拒絶でも命令でもない。失いたくないと願う、ただの懇願だった。
雪那は唇を噛み、ゆっくりと首を振る。
「……いいえ。私はもう、逃げたくありません」
涙がこぼれた。止めようとしても止まらないまま、頬を伝って顎から滴り落ちていく。
春の国にいた時は、涙なんて枯れていたのに。まるで血の通った人形のようだ。
それでも雪那は視線を逸らさない。冬竜王の姿を、その瞳に焼き付ける。
「帰ってきます。全部終わらせて」
震える声だった。その声に、恐怖、喪失、覚悟を滲ませて、それでも雪那は微笑む。
「だから……帰ってきたら、最後まで、そばにいさせてください」
冬竜王が息を呑む。
ゆっくりと手が伸び、雪那の後頭部を包んだ。銀の髪が指に絡む。壊れ物を扱うように優しく、それでいて逃がさない強さで引き寄せる。
深紅の瞳がすぐ目の前にあった。
揺れている。今にも何かを失いそうな色だった。
長い沈黙のあと、冬竜王は静かに言った。閉じ込めることだけが愛ではないと、炎竜王が言っていた言葉が、今になって胸に突き刺さる。
「帰ってこい」
懇願するような声だった。
「俺の隣は、お前のものだ」
そのまま、唇が重なる。
優しく、ただ触れるだけの口付けだった。
それでも離したくないという想いだけが、確かに伝わってくる。
雪那はそっと目を閉じる。
涙は止まらない。
けれど、その温度だけは確かに、二人の間に残っていた。




