月下の決意
窓の外には、秋の夜が広がっていた。
月明かりに照らされた庭園は美しく、鈴虫の音が静かに響いている。雪那には、その景色がどこか遠く見えた。
「雪那」
優しい声と共に、秋叡王の大きく温かい掌が、血の気の引いた冷たい雪那の手に重なる。
「お前さんは、何も悪くない」
「ですが、秋叡王様……銀狼の王は、今こうしている間も、春の国に囚われ続けています……」
雪那が顔を上げると、穏やかに細められた金の瞳が雪那を捉える。
「儂らも一緒に考えよう。破壊ではなく、救うために」
その言葉に、雪那の顔がくしゃりと歪んだ。
春の国がしてきたことを思う。もし本当に、人間の悪意によって、一人の王が二百年もの間、利用され続けているのだとしたら。
「さぁ、今日はもう遅い。休みなさい」
雪那はそのまま部屋を出た。
宮殿の廊下を当てもなく歩く。足元はふらつく。ぐらぐらと世界が揺れているようだった。
覚悟を決めて話を聞きに行ったはずだった。
春の国へ戻る覚悟も出来ているはずだった。
怖い。一人であの地獄へ戻るのが、怖かった。
雪那の胸に埋め込まれた王石の欠片は、本来の持ち主へ返すべきだ。
銀狼の王を助けるべきだ。
人間の王ではなく、彼が本来いるべき王座へ戻さなければならない。
そのためには、自分は春の国へ行かなければならない。
分かっている。分かっているのに。足が竦む。
それから一週間。
雪那は答えを出せないまま過ごした。
昼はぼんやりと窓の外を眺め、夜は眠れず月を見上げる。気付けば涙が頬を伝っていた。
生きたいと、自覚してしまった。
それが、こんなにも苦しいことだとは思わなかった。
冬の国へ来て、自由を得て、たくさんの人と出会った。もっと、世界を知りたい。もっと、もっと。
けれど。
春の国の人間がしてきたことを知ってしまったから。
二百年もの間、利用され続けた王がいるかもしれないと知ってしまったから。
自由を奪われ、誰かのために使われ続けた存在を。
どうしても、見捨てることが出来なかった。
分かっている。分かっているのに。
浅ましくも、雪那は、生きたいと思ってしまった。
その時だった。
ばさり、と翼が風を切る音が響いた。雪那は弾かれたように露台へ飛び出す。
月を背に、一人の男が降りてくる。
黒い翼。闇の炎から躍り出たような黒い髪。深紅の瞳。
冬竜王だった。
その姿を見た瞬間、もう堪えられなかった。
まだ地面へ降り立つ前の冬竜王へ向かって駆け出した。
驚いたように目を見開いた冬竜王が腕を伸ばし、その大きな身体が雪那を受け止めた。
「雪那?」
すっかり耳に馴染んだ低い声が落ちる。顎へ手を添えられ、顔を上げさせられる。
深紅の瞳が、雪那を映した。
その瞬間、理解してしまった。
自分が失うものを。
失いたくない。この人のそばにいたい。
その想いを口に出来ない代わりに、涙だけが次々と溢れてくる。
「お、お帰りなさいませ……」
泣きながら笑うと、冬竜王の眉が僅かに寄った。
「何があった」
親指が溢れ出る涙を拭う。雪那は必死に息を整えた。
「っ、お願いが……あります」
「何だ」
涙で溶け出しそうな灰色の瞳が揺れる。雪那は、冬竜王を見上げた。
「空を……飛んでくれませんか」
冬竜王は怪訝そうに目を細めた。迎えに来てみれば、泣いている理由も言わず、空を飛びたいと言い出したのだから当然だ。
それでも、泣いている雪那を見て、それ以上は何も聞かなかった。
自分が身につけていた外套を、雪那の震える肩へ掛ける。
そして雪那の腰を抱き寄せると、冬竜王は巨大な翼を広げた。夜風が吹き抜ける。
次の瞬間、二人の身体は空へ舞い上がっていた。
雪那は冬竜王の首へしがみつくと、馴染んだ香りがする。
あの日、春の国から連れ去られた日は恐ろしくて、目を開けることさえ出来なかった。
けれど今は違う。
眼下に広がる景色を、満天の星空を、一つ残らず覚えていたいと思った。この時間を、一生忘れたくないと思った。
「綺麗……」
ぽつりと零れた声は、夜風に溶けた。冬竜王が、雪那の泣き腫らした顔を横目で見る。
「良い加減教えろ。何故泣いていた」
「……冬竜王様に会えたのが、嬉しくて」
雪那が、涙の跡が残るまま、少しだけ笑う。
嘘ではなかった。本当に嬉しかった。
会いたかった。声が聞きたかった。触れたかった。隣にいたかった。
この人に会えたことも、この景色を見せてもらえたことも。その全てが、冬竜王が与えてくれたものだった。
だからこそ、このまま逃げ続けたくなかった。
この人がくれた自由を守るためにも、二百年もの間、奪われ続けた誰かの自由を取り戻すためにも。
自分の運命に向き合わなければいけなかった。
夜空の中で、雪那は静かに覚悟を固めた。




