決意
夜明け前――。
秋の国の空はまだ薄青く、夜と朝の境界が曖昧に溶け合っていた。
冷たい朝の風が回廊を吹き抜ける。
雪那は白狐と並び、城の高い回廊から空を見上げていた。
遠くで、黒い翼が大きく風を掴んだ。力強く翼を羽ばたかせながら高度を上げていく。
雪那はその姿をじっと見つめていた。
やがて城壁を越え、黒い翼は朝焼けの空を横切りながら小さくなっていく。
そして点になり、空の向こうへ消えた。
静寂が戻る。雪那はしばらく空を見上げたまま立ち尽くしていた。
昨日まで当たり前のように近くにいた存在がいない。たったそれだけのことなのに、不思議なほど静かだった。
「すぐ戻られますよ」
隣から柔らかな声が降ってくる。雪那のために残ってくれた白狐の声に、空から視線を下ろし、小さく笑う。
「はい」
寂しいけれど。寂しいだけだ。
雪那は胸の前で両手を重ねる。冬竜王がいない時間、ただ待っているだけでいいのだろうか。
答えは最初から決まっていた。
「私も、私のやるべきことをします」
王石のことも、共鳴のことも、治癒術式のこと、知らないことが多過ぎた。
自分の身体のことなのに。自分の力のことなのに。自分の運命に関わることなのに。
何も知らない。何も分かっていない。知らなければいけない。
冬竜王が帰って来た時、少しでも前へ進んでいたい。守られるだけの存在ではいたくなかった。
「秋叡王様と、暁杜様にお話を聞こうと思います」
白狐は少しだけ目を細めた。その表情はどこか嬉しそうにも見える。
目の前の少女が、春の国から連れ去られて来た時よりも、比べものにならないほど、生きた瞳をしている。
「何をお聞きになるのですか?」
今まで、怖くて聞けなかったことがある。冬竜王が隣にいない、今しか確認できないこと。
「……確認したいことが、あるんです」
「でしたら、私が秋叡王様にお時間の調整をお願いしに参りましょうか」
「いいえ」
雪那が首を横に振ると、白狐が少し驚いたように金色の瞳を向ける。
「私が聞きたいことですから。私がお願いしに行きます」
これは自分が向き合わなければならないことだ。だから、自分で行く。自分で聞く。自分で答えを探す。
「分かりました。その方が良いかもしれませんね」
朝日が少しずつ世界を照らし始める。長い夜が終わる。
白狐と別れ、雪那は回廊を歩き出した。
秋叡王に会いに行くため、石造りの廊下を進む。差し込む朝の光が床へ長く伸びていた。
胸の奥は少しだけ緊張している。怖くない訳ではない。けれど足は止まらなかった。
やがて大きな扉の前へ辿り着く。
雪那は小さく息を吸い、そして拳を握る。逃げないと決めた。
ゆっくりと手を上げる。
コンコン――。
静かな音が扉に響いた。
「秋叡王様、雪那です」
「入って構わんよ」
扉の向こうから聞こえてきた温かい声に導かれるように、雪那は扉を開けた。
「朝早くから申し訳ございません」
「いいや、構わんよ。冬坊はもう行ったか?」
「はい」
扉を開いた瞬間、雪那は思わず足を止めた。
そこは王の執務室というより、巨大な研究室だった。
三方の壁を埋め尽くす書棚には、天井近くまでびっしりと書物が詰め込まれている。
棚の隙間には乾燥させた薬草の束が吊るされ、色とりどりの鉱石や標本瓶が無造作に押し込まれていた。
窓際には大きな天球儀。その隣には水を張った水盤と幾枚もの鏡。
何かの計測器具らしき金属製の装置が卓上に並び、床には術式が描かれた紙束が山のように積み重なっている。
秋叡王はその混沌の中心で、何事もないような顔をして机に向かっている。
王の執務室とは思えない光景だった。
「ほれ、そこの椅子に座りなさい。今お茶を淹れよう」
「お茶なら私が……!」
「良い良い。何がどこにあるか分からんじゃろ」
雪那が立ち上がる前に、秋叡王は煩雑に見える棚から茶器を見つけ出し、慣れたようにお茶を用意した。
差し出された茶器からは湯気が立ち上り、香り高い茶葉の匂いが雪那の緊張を解してくれる。
「ありがとうございます」
「それで?こんな朝早くからどうしたんじゃ?」
茶器を両手で包み込み、その温もりを手のひらに感じながら、雪那は顔を上げる。
「……確認したいことが、あります」
「ほう」
「私の王石と、治癒術式について。出来れば、暁杜様と、一緒に」
「暁杜も?構わんが、どうしたんじゃ。そんな怖い顔をして」
秋叡王は、雪那の強張った顔、震える手を見つめて、心配そうに白く豊かな眉毛を顰めた。
「覚悟を決めて来たはずなんですけど、情けないですね」
「お前さんは自分と向き合うために来たんだろう。何も情けなくない」
秋叡王の包み込むような声に、雪那は安堵した。自分と向き合うのは、怖い。けれど、この人になら聞ける、と思った。雪那を慈しんでくれた秋叡王になら。
「暁杜を呼ぼう。あいつはどうせ研究に没頭して寝てないじゃろう。呼べばすぐ来る」
「私が呼びにいきましょうか?」
「いや、式神を飛ばそう」
秋叡王は机にあった人型の紙に、フッと息を吹きかける。
すると、その人型の紙が意思を持ったようにふわりと宙に浮かび、窓から飛び出して行った。
腕輪に結界を施してもらった時も思ったが、秋叡王の術の腕前は恐ろしいほど卓越している。
冬竜王の絶対的な力とは異なる。けれど、王たる所以を端々に感じた。




