茜色の約束
研究塔から戻った頃には、すっかり日が傾いていた。
秋の国の夕暮れは静かだ。
窓の外では赤く色付いた木々が風に揺れ、落日が部屋の中を茜色に染めている。
雪那の部屋には、秋叡王が訪れていた。
秋叡王は寝台に腰掛ける雪那の前に立ち、その額へ手を添える。
淡い金色の光が広がった。共鳴を抑える結界の確認。そして、春の国の呪詛による影響が残っていないかを調べるためだ。
しばらくして光が消えると、秋叡王は手を下ろした。
「ふむ。結界は問題なく働いておるな」
その言葉に、雪那は小さく息を吐いた。
「呪詛の残滓も見当たらん。身体の方も落ち着いておる」
「ありがとうございます」
秋叡王は雪那を安心させるように頷いた。そして、その視線が長椅子に腰掛けている冬竜王へ向けられる。
「さて、冬坊」
秋叡王が口を開くと、冬竜王が何かを察したのか露骨に嫌そうな顔をした。
「何だ」
「お前、そろそろ一度冬の国へ戻れ」
「……何を言っている」
長椅子に深く預けていた身体を起こし、冬竜王は眉間の皺を濃くするが、秋叡王は呆れたように肩を竦める。
「王がいつまでも国を空けるものではないわ」
冬竜王は口を噤む。診察によって乱れた袷を直していた雪那も、ハッと顔を上げる。
「雪那の共鳴については、まだ何一つ解決しておらん」
「……」
「明日解決する話でもなければ、一週間で終わる話でもない」
雪那も静かに頷いた。確かにそうだ。共鳴を断つ方法が見つかるまで、自分はしばらく秋の国に滞在することになるだろう。
けれど、だからといって冬竜王がいつまでも王座を空けていていい訳ではない。
「春の国は、冬の国か夏の国を通らねば、秋の国へは来られん。結界を張っている以上、そう易々と手出しも出来まい」
秋の国の王である秋叡王が施した結界は、冬竜王でさえ簡単に破れるものではない。
「雪那は儂らが責任を持って預かる。だから一度戻れ」
冬竜王は顔を背けた。反論しないのは、秋叡王の言葉が正しいと、冬竜王自身が理解しているからだ。
雪那はそんな横顔を見つめた。
胸の奥が少しだけ温かくなる。本当なら喜ぶようなことではない。けれど、雪那のために、冬竜王がここまで秋の国へ留まってくれた。
それだけで十分だった。
その優しさに、これ以上甘え続ける訳にはいかない。
「冬竜王様。私は大丈夫です。どうか、一度お戻りください」
冬竜王はしばらく何も言わなかった。やがて深く、長いため息を吐く。
「……分かった。明日の朝、出立する」
観念したように言った紅い瞳が秋叡王へ向く。
「それでいいだろう、翁」
秋叡王は満足そうに頷いた。本当なら、王の自覚が足りないと、今すぐ叩き出しても良かった。
だが、この二人に少しくらい時間をやってもいい。そう思ったのだ。
「では、儂は戻る。何かあれば呼べ」
秋叡王はそう言い残し、コツコツと杖の音を響かせながら部屋を出て行った。
雪那は立ち上がり、長椅子に腰掛ける冬竜王の前に立った。
「という訳だ。しばらく俺は離れる」
問題はない。けれど、雪那は少し考えて、正直な気持ちを口にした。
「……寂しいです」
冬竜王がぴたりと動きを止めた。切れ長の目が、僅かに見開かれて、雪那を見つめる。
「随分、素直になったものだ」
そう言いながら手を伸ばし、雪那の手首を掴み、そのまま引き寄せた。気付けば雪那は、冬竜王の膝の上に乗せられていた。
「あ、あの……?」
「寂しい、か」
慌てて肩へ手を置くと、冬竜王は愉快そうに口端を緩めた。
雪那は間近に迫った冬竜王の顔を見下ろし、両手を伸ばし、冬竜王の頬を包む。
「でも、迎えに来てくださるのでしょう?だから、大丈夫です」
「ふっ、言うようになったものだ」
しばらくは、慣れ親しんだこの夕焼けのような双眸ともお別れだ。忘れないように、焼き付けておきたい。
「早く帰れるように、私も頑張ります」
共鳴のこと。王石のこと。治癒術のこと。逃げずに向き合う。そう決めた。
冬竜王も雪那をその双眸に焼き付けるように見つめていた。そして口元を緩める。
「王石も、共鳴も、お前一人で抱え込むな。翁がいる。頼れ」
「はい」
「何の手立てもなければ、その時は俺が全て片付ける」
雪那は冬竜王らしい物言いに、思わず笑みを溢した。
「それでは私の頑張る意味がありません」
「俺の睡眠のためだからな」
冗談なのか、本気なのかは分からないが、冬竜王がそう言ってくれるだけで、雪那の心は不思議と安定する。
冬竜王の腕が雪那の細い腰を引き寄せる。
「……お待ちしています」
「すぐ迎えに来る」
引き寄せた雪那の胸元に、冬竜王が顔を埋める。夜を閉じ込めたような黒髪が、雪那の頬を掠める。
「冬竜王様?」
「……少し黙れ」
低く呟いて、冬竜王は雪那の後頭部へ手を添えた。
そのままゆっくり引き寄せる。雪那が目を瞬かせた次の瞬間。
柔らかな感触が、額へ落ちた。
「離れる前くらい、好きにさせろ」
くすぐったいような甘い痺れが背骨から腰に降りていく。
「ん、ふふ、くすぐったいです」
「その顔を忘れずに待っていろ」
くすぐったそうに身を捩る雪那を、冬竜王は深く抱き込んだ。
翌朝。
まだ日も昇らぬ早朝に、冬竜王は氷雅を伴い、冬の国へ向けて出立した。




