秋の国が守るもの
三日ほどが過ぎた。
高熱は完全に下がり、身体の怠さもほとんどなくなった。秋叡王が施してくれた腕輪のおかげで、共鳴による負担も抑えられているらしい。
そして、ようやく部屋の外へ出る許可が下りた日。
冬竜王は秋叡王に呼ばれているらしく、今日は別行動になった。
「では、私がご案内しましょう」
「氷雅さん、良いんですか……?」
「私もお供しましょう」
白狐もニコリと笑い同意してくれたので、氷雅の申し出を有り難く受け取り、雪那はその日、秋の国に来て初めて部屋の外に出た。
久しぶりの外の空気に、雪那の足取りは自然と軽くなる。
秋の宮殿は、冬の国とも夏の国とも違った。色鮮やかな紅葉が建物の間を埋め尽くし、風が吹くたびに黄金色の銀杏が舞い落ちる。
遠くには幾重にも連なる山々。谷には白い雲海が流れ込み、まるで空の上に宮殿が浮かんでいるようだった。
歩いていると、至る所から声が飛ぶ。
「あれ、氷雅様だ!」
「お帰りだったんですね!」
「氷雅ー!あとで寄れよ!」
研究者らしき妖魔も、書物を抱えた人間も、庭師らしき獣人も、皆が気軽に声をかけてくる。氷雅は慣れた様子で手を上げた。
「人気者なんですね」
「久しぶりに帰りましたからねぇ」
さらりと答えるが、そのたびに呼び止められる様子を見る限り、相当慕われているらしい。氷雅の表情もどこか柔らかく、久しぶりの帰還に喜んでいるのは、秋の国の人々だけではないのが伝わる。
最初に案内されたのは天文学の塔だった。
山よりも高く聳える白い塔。最上階へ辿り着くと、巨大な天球儀と観測装置が並んでいた。
窓の外には果てしない空。秋の国全体を見渡せるほどの絶景だった。
「ここでは星の動きや季節の巡りを観測しています」
「綺麗……」
「秋の国は昔から記録を重んじる国ですから。まぁ、夜ではないので今は見れませんが」
ここから見る夜空は、一体どれほど美しいのだろう。高い空を見上げて、雪那は眩しそうに目を細めた。
その後、幾つかの回廊を抜け、やがて一つの巨大な宮殿の前へ辿り着いた。
「こちらが、秋の国が誇る書庫ですよ」
扉の向こうの光景に、雪那は目を見開いた。
高い天井。何階建てなのかも分からないほどの吹き抜け。壁という壁を埋め尽くす本棚。果ての見えない書架。無数の梯子。幾重にも伸びる回廊。
そしてそこに収められた膨大な書物。まるで本そのものが森となり、一つの世界を形成しているようだった。
「これ全部……本ですか?」
「はい」
氷雅は何でもないことのように頷く。茫然と書庫を見渡す雪那は、その光景に圧倒されたようにその場に立ち竦んだ。
「ちなみに同規模の書庫があと二つあります」
「……あと二つ?」
「えぇ」
目の前の光景だけでも一生かけて読み切れる気がしない。それが三つ。圧倒的な量だった。
「秋叡王様は即位されてからずっと、知識を集め、記録し、後世へ遺し続けておられます」
静かな声音だった。けれどそこには深い敬意が滲んでいた。
「失われる知識を拾い上げること。本を守ること。学びを次代へ繋ぐこと。それが秋の国の根幹です」
雪那は改めて書庫を見渡した。本の種類だけでも数えきれない。気候や風土、薬草、病気、伝承、神話、歴史、物語。数え切れない知識がここに眠っている。
「何から読めばいいのかも分かりません……」
途方に暮れて呟く。すると氷雅は慣れたように近くの書架へ歩み寄ると、迷いなく数冊の本を抜き取る。
「でしたら、この辺りがお勧めですよ」
渡された本の表紙には、『秋の国建国史』『黄昏の神話』『秋の国風土誌』と書かれていた。
「秋の国の成り立ちが書いてあります。読みやすいですよ」
「ありがとうございます」
本を受け取りながら、慣れたように本を選んでいた姿に、ふと疑問が浮かぶ。
「氷雅さんは、ここにある本をどのくらい読んだことがあるんですか?」
「どのくらい、ですか?」
「はい」
元は秋の国の出身ということは、この書庫の本はいくらでも読めたはずだ。氷雅は少し考えるように顎に手を当て、天井まで届く書架を見上げた。
「そうですね……流石に全てではありませんが、九割ほどでしょうか」
雪那はその答えに驚きを隠せなかった。九割でも、恐ろしい数になるに違いない。冬の国では珍しいこの冷静で知的な雰囲気は、秋の国で育まれた物だったのか、と雪那は納得する。
「きゅ、九割……」
「私達妖魔は時間だけは持て余していますから」
氷雅は微笑むが、とても参考にならない答えだった。白狐も横で苦笑いを溢した。
雪那は改めて周囲を見渡した。天文学の塔、そして果てしない書庫。知識を集め続ける人々。秋叡王が守り続けてきた時間の重みが、少しだけ分かった気がした。
「……良い国ですね」
「そうでしょう」
雪那の口から自然と溢れた言葉に、氷雅はどこか誇らしげに笑みを深くする。
「涙が出るほど美しい夕暮れ、鮮やかな紅葉、黄金色の銀杏が地面を染め上げ、澄み切った青空、早朝には雲海が広がり、夜には満天の星が降ります」
雪那は思わず窓から空を見上げた。また一つ、見てみたい景色が増えた。
書庫の中を歩きながら、雪那は氷雅が誇るその景色を、いつか見ていたいと強く願った。
「雪那様、そろそろお疲れなのでは……?」
「え?」
「息が上がっておりますし、そろそろお部屋に戻りましょう?」
白狐に気遣われて初めて、雪那は自分の息が上がっていることに気付く。
思った以上に歩いていたらしい。氷雅もそれに気付いたようだった。
「今日はここまでにしましょう」
「えっ、あの……でも、少し休めば……!」
思わず引き止めるような声が出る。氷雅は苦笑して元来た道を引き返す。
「宮殿は広いんですよ、雪那様」
窓の外を指差す。山肌に沿うように建つ無数の建物。回廊。階段。橋。
「そもそも一つ一つの宮が大きいですし、ここはかなり標高も高いです。高低差も激しいですし、あまり無理をすると高山病になりますよ」
雪那は少しだけ肩を落とした。もっと見たかった。もっと知りたかった。
けれど、無理をしてしまえば、また皆に心配をかけてしまう。それだけは嫌だった。
「……分かりました」
「魔術研究棟はまた明日にしましょう」
「はい」
雪那は胸に抱えた本へ視線を落とす。知らない世界が、まだこんなにもある。その事実が嬉しかった。
書庫を出ると、燃えるような紅葉が風に揺れていた。
そして部屋への帰り道、宮殿の回廊を歩いていると、不意に雪那の足が止まった。
「あ……」
長い回廊の先。回廊の柱へ背を預け、冬竜王が立っていた。
頭上で結んだ漆のような黒髪が、風に揺れる。紅葉よりもなお紅い瞳が、雪那を捉える。
気付けば駆け出していた。
「冬竜王様!」
雪那が近付くのを見ると、冬竜王は柱から身体を起こした。
「お話は終わったんですか?」
「あぁ」
冬竜王は雪那の顔を見つめる。少し赤くなった頬、歩き回ったせいか、額に薄く浮かぶ汗。冬竜王の姿を見つけて、輝く灰色の瞳。
「お前は?どこへ行っていた」
そう言いながら、まるで当たり前のように雪那の腰を抱き寄せる。同時に雪那が抱えていた本も取り上げられた。
「あの、ありがとうございます」
「それで?」
雪那の腰を抱いたまま自然と歩き始めた冬竜王は、雪那の答えを待つように首を傾げる。
「天文台と、大書庫を案内していただきました。書庫が本当に凄くて……宮殿の中が、全部本で埋め尽くされていました」
「そうか」
辿々しくも、楽しそうに語る雪那を見下ろし、冬竜王は小さく口元を緩めた。相槌を打つその声には満足そうな響きがあった。
雪那が楽しめた。それだけで十分だった。
少し後ろでは、白狐と氷雅が歩いている。二人とも何も言わず、ただ自然と距離を取っていた。
夕暮れが近付いている。窓の外では紅葉が夕陽に染まり始めていた。黄金色の銀杏が風に舞う。
その中を、二人は並んで歩く。雪那はふと隣の冬竜王を見上げる。
迎えに来てくれたことが、何だか嬉しかった。
その温かさを胸の奥に抱きながら。雪那は小さく笑った。今日見た景色を、一つ残らず話したくなった。
そして二人は並んだまま、部屋への帰路を辿っていった。




