大樹の王
朝――。
冬の国よりも温かく、けれど夏の国より冷たい風が、開け放たれた窓から吹き込んでいた。
雪那はゆっくりと目を開ける。窓の外には、見渡す限りの紅葉が広がっていた。
燃えるような朱。深く沈む紅。陽光を受けて輝く黄金色の銀杏。風が吹くたびに葉が舞い上がり、鮮やかな色彩が空を流れていく。
一枚の銀杏が風に乗って部屋へ入り込み、ひらひらと揺れながら寝台の上へ落ちた。
高熱を出していた時の記憶は曖昧だ。身体の内側から焼けるような熱が暴れ回っていたような記憶しかない。
身体はまだ少し怠いものの、あの時のような苦しさはない。呼吸も楽だ。熱も感じない。
視線を隣へ向けると、冬竜王は寝台の傍らの椅子に座っていた。
長い黒髪を肩へ流し、腕を組んだまま目を閉じている。眠っているのかと、雪那が身体を動かすと、紅い双眸が開いた。
「起きたか」
「はい。おはようございます」
その一言だけで、ずっと様子を見ていてくれたのだと分かった。
コン。
控えめな音と共に扉が叩かれた。
「入ってもよろしいでしょうか?」
聞き慣れた声が扉の向こうからかけられる。扉が開くと、最初に飛び込んできたのは羽雲だった。
白と水色の毛並みを揺らしながら一直線に寝台へ飛び乗る。
「羽雲っ――」
言い終わる前に、ざらざらとした舌が頬を舐め回した。きゅうきゅう鳴きながら頭を擦り付けてくる。尻尾は千切れそうな勢いで振られていた。
思わず笑みが零れる。その後ろから白狐が歩み寄り、寝台の傍らへ膝をつく。
そして雪那の手を両手で包み込み、自分の額へ押し当てた。
「良かった……本当に良かった」
今にも泣き出しそうな顔で微笑む白狐を見て、雪那の胸がきゅうと締め付けられる。
「心配をかけて、ごめんなさい」
「謝らないでください。ご無事であれば、それでいいのです」
涙が滲むその瞳には安堵が滲んでいる。
「私達もよろしいですか?」
穏やかな声が聞こえた。開け放たれた扉の向こうに、氷雅が立っていた。
そして、その隣には小柄な老人がいる。豊かな白髭。雪のような白髪。一本の杖を手にした老人は、ゆっくりと部屋へ入ってきた。
「起きたようじゃのう。調子はどうじゃ?」
雪那が誰だろうと首を傾げる。すると白狐が小さく耳元で囁いた。
「秋叡王様です」
「……っ!!失礼致しました」
寝台で出迎えていい相手ではないと、雪那は慌てて身体を起こそうとしたが、隣にいた冬竜王に肩を押さえられる。
「そのままでいい」
「そうじゃ。まだ身体が辛いだろう。そのままでよい」
杖をコツコツ鳴らしながら寝台の傍へやってくる。そして熱を確かめるように雪那の耳の下へそっと手を押し当てた。
「うむ。熱は下がったようじゃな」
「このような格好で申し訳ございません。命を救っていただき、ありがとうございました」
雪那は寝台の上で深く頭を下げた。その姿を見た秋叡王はまるで孫を見る祖父のような顔で微笑む。
「うんうん。生きていて良かったわい」
その声音に、深い慈愛が滲んでいるのを感じて、雪那は思わず目を瞬かせる。
冬竜王とも、炎竜王とも違う。二人の王の前では、自然と頭を垂れたくなる。
けれど秋叡王は違った。ただそこに立っているだけなのに。何百年、何千年と風雪に耐えてきた大樹のような存在感がある。
穏やかな笑みを浮かべているのに、その瞳の奥には誰も辿り着けないほど深い叡智が宿っていた。
気付けば雪那は自然と背筋を伸ばしていた。
「呪詛は解術してある。じゃが身体はまだ弱っておる。しばらくゆっくり休むと良い」
「はい。ありがとうございます」
秋叡王は優しく目を細めると、耳の下に当てていた手を、雪那の頭の上に滑らせる。
「辛かったじゃろう。人の身に王石を宿すなど、本来あってはならんことじゃ。よう耐えたのう」
雪那の目頭が、不意に熱くなる。その一言が、春の国で過ごした長い年月を肯定してくれた気がした。
「おい、翁。泣かせるなよ」
「何を言うか。儂は当然の労いをしたまで。冬坊はそういう心の機微が分かっとらんのう」
雪那の涙が引っ込んだ。
「……冬坊?」
目を瞬かせる。この話の流れで、該当する人物は一人しかいない。まさか。まさかとは思うが。
「冬竜王様のことですか?」
「そうじゃが?」
思わず絶句した雪那を見て、秋叡王が愉快そうに笑う。
当の本人である冬竜王は、何の疑問も抱いていない顔をしていた。
雪那はそこで理解する。この老人は、冬竜王より格上だ。立場も、おそらく経験も。
そんなやり取りを見ながら、氷雅が静かに前へ出た。手にしていたお盆の上には、湯気の立つ湯呑み。
「どうぞ。お茶ですよ」
「……お茶?」
「ひゃうん!!
雪那は素直に受け取った。その瞬間、鼻腔を突き刺す香りに、雪那は眉を寄せた。
隣で寝転んでいた羽雲が情けない鳴き声を上げて、鼻先を押さえるように前脚で顔を掻きながら、一目散に部屋の隅に逃げていく。
色が、黒く濁っている。匂いだけでも、苦いのが伝わってくる。
「苦いですが、全部飲んでくださいね。弱った身体を回復させる薬草をふんだんに使っていますので」
「……いただきます」
氷雅の爽やかな笑顔に後押しされ、雪那は恐る恐る一口飲んだ。
――苦い。
この世のものとは思えないほど苦い。口の中が一瞬で薬草に支配される。
しかし、雪那のためにせっかく淹れてもらったものを残す訳にはいかない。雪那は涙目になりながら全部飲み干した。
「雪那様、お水です。どうぞ」
「けほっ、ありがとうございます」
後味の苦さに悶えていると、横から白狐が水を差し出してくれた。一息に飲み干し、どうにか苦さを飲み込む。
雪那は氷雅へ視線を向ける。
「氷雅さんが、話を通してくださったと聞きました」
「えぇ」
「ありがとうございます。ご迷惑をお掛けして、申し訳ございません」
頭を下げる雪那を見て、氷雅はニコリと事もなさげに微笑んだ。
「まぁ、実家ですからね。私が行くのが一番手っ取り早かったんですよ」
「……実家?」
「はい。ここ、私の実家なので」
カチャ、と中指で眼鏡を押し上げた氷雅は、驚いて固まった雪那にふっと笑みをこぼした。




