目覚め
ずっと、悪夢を見ていた。
春の国の城。冷たい石の床。術師達の無機質な声。
『痛みのない身体は便利だな』
『お前の力は春の国の為にあるんだ』
遠い昔の痛みと絶望だけが続く記憶。まだ治癒術式も使えなかった頃の、救えなかった人々の顔が見える。助けを求める声、縋り付く手、救えなかった命が、雪那を容赦なく闇に引き摺り込む。
王城へ連れて行かれたあの日から、一度も会えなかった家族が、遠ざかっていく。どれだけ走っても追いつけない。呼んでも振り返ってくれない。
胸が苦しくなる。息が出来ない。どこまでも深く、沈んでいく。
『助けられなくてごめんなさい……!!私も、みんなのところに行かせて……』
暗く、冷たい闇の底が、手招きするように揺れる。身体中を包み込み、雪那の意識を奪おうとする。
『雪那』
ずっと、自分の名前を呼ぶ声が聞こえていた。
『雪那』
何度も、何度も。諦めずに。名前を呼ばれるだけで、雪那を取り囲む闇を振り払ってしまう。
まるで、大切な宝物を呼ぶみたいに。そんな風に雪那の名前を呼んでくれる人なんて、いただろうか。
その声に会いたかった。会いたくて、会いたくて。ただ、その声の元へ行きたかった。
そして、導かれるように、ゆっくりと瞼を開く。
最初に見えたのは、見知らぬ天井だった。青い月明かりが部屋いっぱいに満ちている。
ぼんやりと霞む視界。身体は鉛のように重かった。指先ひとつ動かすだけでも途方もない力が必要な気がする。
ここは――?
声にしようとして、掠れた息しか漏れなかった。
「雪那!!」
夢の中で何度も聞いた声だった。瞳だけをゆっくりと動かす。
そこにいたのは、冬竜王だった。寝台へ身を乗り出し、雪那を見下ろしている。
紅い瞳が揺れていた。いつもなら冷たく美しいはずの顔が、今はひどく疲れて見える。
どうしたんですか。そんな顔をして。また眠れていないんですか。
そう言いたかったのに、声にならない。
冬竜王は、まるでそこにいるのを確かめるように、大きな手で頬に触れる。
「……生きていて、良かった」
絞り出すような声に、雪那は目を見開いた。冬竜王がそんな声を出すなんて思わなかった。
掠れた唇を動かす。
「……ぁ…わた、し……なにが……?」
喉が痛い。上手く声が出ない。何があったのか、頭に靄がかかったように思い出せない。
身体を起こそうとすると、冬竜王はすぐに背中を支えて、上体を起こす。そして、寝台脇の卓へ手を伸ばし、透明な硝子杯を雪那の口元へ運ぶ。
冷たい水が、乾き切っていた身体へ染み込んでいく。ようやく少しだけ息がつけた。
「お前は高熱で意識を失っていた」
「高熱……?」
信じられなかった。王石をこの身に宿してから、雪那の身体は作り替えられた。
「今は秋の国だ。秋の国の王、秋叡王の治療を受けている」
秋の国。その言葉に雪那は目を見開く。見慣れない部屋、冬の国から遠く離れた場所。国境すら越えている。
ただの熱で、そこまでしなければいけない理由が、あった。
雪那はゆっくりと自分の身体を見下ろした。細い腕。力の入らない指先。けれど、発熱くらいで倒れる身体ではないのを、雪那自身が一番知っている。
「私の身体に……何か、あったのですね?」
茫然と呟くと、冬竜王は背中を支えていた腕を引き、そのまま強く抱き締められる。
冬竜王の胸へ頬が押し付けられる。
どくん、どくん。耳元で響く心音。冬竜王の鼓動が、こんなにも激しく脈打つ音を聞いたのは初めてだった。
「冬竜王、さま……?」
小さく呼び掛けるが、返事はない。ただ腕に込められた力だけが答えだった。雪那は、自分に何かが起きたのだと悟る。
額を合わせるように顔が近付く。深紅の瞳が、決意したように雪那を捉える。
「お前の、王石が暴走を起こしていた」
「……暴走?何故ですか?」
「治癒術式の酷使によって、本体から力を引っ張ろうとして、共鳴したんだ。お前の王石は、今春の国の本体によって引き寄せられてる」
雪那は自分の胸元の、冷たい石に触れる。王を治癒することは、それほど負担の大きいことなのか。
「秋叡王の結界によって、一時的に遮断されて、今は落ち着いている」
けれど、本当にそれだけだろうか。
「……冬竜王様。本当のことを、教えてください」
揺れる瞳が、それだけではないと、教えてくれる。何かを思い出したのか、冬竜王から怒気が立ち昇る。
「知らなくていい」
「いいえ。教えてください。きっと、知らなければいけないのです」
冬竜王はその言葉に、春の国の所業を思い出し、グッと込み上げてくる怒気を抑えた。
胸元の王石に触れる細い指を、包み込むように握り締める。何度か迷うように目を瞬かせ、そして告げる。
「……春の国が、王石を通してお前に呪詛を送っていた」
「呪詛……?そう、ですか……そこまでするんですね」
雪那は困惑したように苦笑いを溢す。冬竜王の言葉の意味を考える。
この王石を取り出すために、そこまで。最早乾いた笑いしか出てこない。
「秋叡王が、呪詛は解術してある。あとは共鳴を止める手段を、今探している」
「……ご迷惑を、おかけしてばかりですね」
「馬鹿が。お前は何も悪くない」
この言葉を、一体何度言ってもらったんだろう。春の国が、何度雪那に手を出しても、冬竜王は必ず助けてくれる。決して雪那を責めない。
冬竜王に、雪那は何も返せないのに。与えてもらったものは沢山あるのに。それが歯痒くて、情けない。
また、王石が暴走して迷惑をかけるかもしれない。春の国が手を伸ばしてくるかもしれない。それでも。
「……それでも、そばにいたいと思う私は、強欲でしょうか」
この人のそばにいたい。もう、手放せないのは、雪那も同じだ。
雪那が苦笑いしながら紡いだ言葉に、冬竜王は一瞬目を見開き、それからクツクツと喉を鳴らし、愉快そうに口端を上げた。
「良いじゃないか。俺の隣にいるなら、それくらいの欲を出してもらわないと困る」
全てを諦めて、生きる理由もなく死んだように生きているより、よっぽど良い。
雪那の形の良い丸い頭が、冬竜王の顎の下にすっぽりと収まる。
「勝手に諦められるより、余程良い」
雪那はそっと目を閉じた。冬竜王の腕の中は、不思議なほど温かくて、全てを包み込んでくれるようだった。




